09-06

09-06
客宅ルーターは都の想定とは違い、サーバールーム内のラックに2台とも設置するのではなかった。バックアップ側のルーターはサーバールーム内のラックだが、メイン側のものは別の場所へ設置すると言う。メイン側のルーターの設置作業から実施する段取りなので、まずはそちらの設置場所へお客担当者にアテンドしてもらうことになった。営業は平下が同行してきた。客宅ルーターは受領済みと言うことだが、見当たらない。都は平下にルーターは何処かと聞いたら、すでに両ルーターとも設置するラック前に置いてあるとの事だ。
オフィスエリアを背にして、エレベータホールに向かわず、窓際を進んで行くと、ドアにぶつかる。ドアノブには鍵穴と数字キーがついており、二重ロックになっていた。強面のお客がそのドアを開けると、開けっ放しにしておくためドアを外側へ全開にし、床とドアの隙間に楔を挟んだ。そのドアを抜けると、窓と壁しかない通路のような空間で、壁側には鉄製の扉が二つほど並んでいる。窓からは日差しがたくさん差し込んできていて暑いくらいだ。強面のお客は手前の扉の鍵を開けて、また開けっ放しになるよう、ドアと床の間に楔を挟んでいた。
おそらくは現地調査の時や回線敷設の時に、営業の平下は立ち会ったのだろう、何度も来ているような風で、お客に続いてその部屋に入って行く。コンクリート打ちっ放しの壁と床で、物置のような空間だ。決して埃っぽいわけではないのだが、埃のにおいと言っていいのか、そんなにおいがする。日射しが注ぐ通路との差もあるが、少し空気が冷んやりしている。
この物置のような部屋には19インチラックが3つ並び、その3つ目のラックと向かい合わせになるような位置で、PBXが鎮座していた。オフィスと工場の内線同士や、それらと外線との間を交換しているものだろう。都は、今回の客宅ルーターに音声があるとは聞いてはいなかった。しかし、PBXのある部屋のラックに、メイン側の客宅ルーターを設置するということは、PBXと客宅ルーターを接続し、客宅ルーターをボイスゲートウェイとして使う要件もあるんじゃないのかと思った。
PBXとルーターとを、IPではなく、音声信号で接続し、客宅ルータでIPと音声信号との相互変換を行う。これはお客とPBXベンダーとの間で連携がきちんと取れていて、尚且つ、ルーターとPBXとの音声接続に関する、信号方式などの決め事についてのヒアリングや意識合わせが、PBXベンダーと担当PM・SEとの間できちんと出来ていないといけない。このヒアリングや意識合わせは、ルーターの世界に生きているエンジニアと、PBX、特にこういうルーターと音声信号での接続をしなければならない、レガシー系PBXの世界で生きているエンジニアとでは、全く言葉が違うので、擦り合わせるのにかなり苦労する。それを乗り越えて、きちんと接続に関する決め事で認識が合っていれば、現場作業員はただPBXからフィードされた音声用のケーブルを、客宅ルーターに積まれた専用モジュールのインターフェイスに接続し、実際のお客の電話機などを使って、通話試験をするだけで済む。しかし、ボイスゲートウェイの音声でトラブルと、現場作業員が、お客やPBXベンダーと話をしたり、その話をオフィスのPMやSEにフィードバックしたりしなければいけない。また、それぞれの指示に従って、物理的な作業も必要になってくる。手間もかかるが、とにかく長時間化することが多い。しかし、今日出会った人たちに、PBXベンダーらしき人はいなかった。いや、実はこの強面のお客が、自前のPBXエンジニアだったりするのだろうか。
ラックは一般的な19インチラックの36Uものだ。ドアから見て手前の二つのラックには、スイッチが1、2台設置されているだけで、他にはほとんと何も入っていない。この二つのラックからは前後のパネルが外されていて、部屋の奥の方に、その外されたラックのパネルが四枚重ねて立て掛けられていた。一番奥のラックは、前後のパネルは閉められていて、網目作りのラックパネル越しに、中にサーバーか何かが積まれているのが見える。一番手前のラックの前面の床に、見慣れたダンボールが、ガムテープで梱包されたままの姿で置かれていた。幅は19インチラックぴったりのもので、1Uサイズの高さの機種が中に入っていることは、ダンボールの大きさからわかる。事前に聞いていた話と一致する。
営業から設置を始めるよう指示があったが、ラック内の設置位置や電源を取る位置が不明だ。営業に聞いても良かったが、営業の隣に強面のお客がいるのに、営業に聞くのも態度が悪いかもしれない。都は、強面のお客に直接聞いてしまうことにした。
「すみません、ルーターを設置する位置と、電源をどちらからお取りすれば良いか教えていただけますか。」
強面の男は、ゆっくりと動き、ラックのマウントレールの番号が見えるように身を屈めて、指で差しながら20番に設置してくれと言った。電源は、正面から見て左側のサイドパネル裏に固定してある、電源タップの好きなところから取って良いと言われた。ラックの15番くらいには、棚板が設置してあり、回線の終端装置が置かれていた。電源が入っていることを示すLEDと、回線側が上がっていることを示すLEDが緑色に光っている。32番あたりに1Uサイズの24ポートもののスイッチがあるが、ケーブルが何も繋がっておらず、電源も入っていないようだ。ラックの下からは床下が覗け、暗い中に綺麗に巻かれた回線のファイバーケーブルやその他の被膜ケーブルが見える。一本LANケーブルが上まで伸びてきていて、サイドパネルの下の方に養生テープで止めてあった。おそらくルーターのLANインターフェイスに接続するケーブルだろう。
「ありがとうございます。あと、すみません、ラックのネジありますでしょうか。それと、私たちの作業用パソコンの電源をお借りできればと思うのですが…。」
「…ラックのネジ…?」
強面の客は、都の言っていることを理解できなかった。都はルーターをラックに固定するための、ラック側のネジとケージナットだということを、マウントレールのネジ穴を指差したり、固定する手振りなどをしながら説明した。強面の客は、合点がいったと言う意味で、感嘆の声を漏らし、屈めていた腰を直すと、PBXの方へ歩いて行き、PBXの側に置いてある、サイドテーブルの上に乗っていた、上蓋が開いたままの小さなダンボール箱を持ってきた。中にはラックのネジと、ケージナットとが、たくさん入っていた。
「これを使ってください。電源は壁にあるものを使ってもらえれば。」
小さなダンボールを都に渡すと、ラック正面方向の壁の下にある、2穴の一般的な電源コンセントを指差した。ラックの裏側にもあることを、強面の客は教えてくれた。渡された小さな箱は、ずっしりとした重さがある。
「ありがとうございます。」
都は明るく笑顔で言った。岸谷も続けて礼を言った。強面の客は目を合わせることなく、軽く会釈だけした。愛想がないと言えばそれまでだが、態度が悪いと言うよりは、シャイな人なのだろう。それは都の勝手な解釈で、この強面の客が、都の勤めるキャリアに対して一番不満を募らせているのかもしれない。気は抜かないほうが良さそうだった。
「じゃあ、まずはパソコンの用意をしよう。」
「はい。」
都の声掛けに、岸谷は、岸谷になりに小さく返事をした。都の声が小さかったので、それに合わせたらしいが、それでもよく通る声だ。都はしゃがんで自分のビジネスバッグのジッパーをあけ、工事用PCのACアダプターと電源ケーブルを取り出した。それらを岸谷に渡し、強面の客に案内された壁のコンセントから電源を取るよう頼んだ。都はその間PCをコンクリートの床に置き、認証用のカードリーターを接続してから、ディスプレイを開き、電源を入れた。ハードディスクパスワードを入れて、リターンキーを叩くと、OSが起動を始める。岸谷からACアダプターの接続ケーブルを渡してもらったので、礼を言いながら受け取り、それも接続する。
「起ち上がるまで時間かかるから、ちょっとルーターを準備しちゃおう。」
都はしゃがんだまま2、3歩移動し、ルーターが入った段ボール箱の側へ行く。蓋を閉めているガムテープをゆっくりと綺麗に剥がし、万が一ルーターの故障でオフィスへ送り返さないといけなくなった時のために、段ボールにべったり貼り付かず、再利用できるように軽く段ボールの側面に貼った。
蓋を開けて、付属品を取り出す。電源ケーブル、回線終端装置とルーターを接続するUTPストレートケーブル、ルーターの端に取り付け、ラックに固定するためのラックマウントキット。ラックマウントキットはきちんと2つ入っていて、ルーターにマウントキットを固定するためのネジも必要本数入っていることを確認する。付属品の袋は一度開けた跡があった。キッティングを担当した人がきちんと中身を確認したと言うことだ。
緩衝と固定のための発泡スチロールを、ルーターの両サイドに被せたまま、ルーターを段ボールの中で立てる。そこそこ大きいので、都が一人で立てようとしていると、すぐ岸谷が手を差し伸べてくれた。上側の発泡スチロールを外してから、下の発泡スチロールを脱がすようにルーターを持ち上げる。ルーターはビニール袋に包まれているので、手を滑らせないよう気をつける。静かにルーターを段ボールの外に立てて、ビニール袋を脱がせる。ルーターの正面側のパネルについているビニールの保護膜を剥がすと、新品で艶のあるプラスティック製のパネルが光を反射する。
「岸谷さん、段ボールの中に、発泡スチロール入れちゃって、蓋閉めてもらっていい?」
都は立てたルーターを両手で支えながら言った。
「はい。」
岸谷は愛想良く返事をして、テキパキと段ボールを閉めた。ふたは押さえていないと開いてしまうので、岸谷に軽く押さえてもらい、段ボールの四角とルーターの四角とが交差するよう、ルーターを寝かせて置く。ラックマウントキットをルーターにつけるのだが、都はもう一つ大事なことをお客に聞くのを忘れていた。何度もお客に聞かないといけないのは気が引けるが、聞かなければいけないので、躊躇せず聞く。
「あ、すみません、ルーターの背面と正面、どちらをラックの正面に向けてマウントすればよろしいでしょうか?」
この位置が決まらないと、ラックマントキットの取り付け位置が決められない。背面をラック正面に向けるのであれば、ラックマウントキットは背面側の端に取り付けるが、逆であれば、正面パネルの端に取り付けなければならない。
「あ、ケーブル差し口のあるこちらか、逆のこちら、正面パネルの方、どちらをラック正面に向けるか、です。」
強面のお客が、無言のまま首を伸ばし、何を言っているのかわからない、という風だったので、都はルーターの背面と正面を交互に指差しながら、説明を足した。背面を指した時に、4つあるモジュールスロットの一番左端に、T1/E1インターフェイスを一つ備えたカードが挿してあるのに気がついた。やはりPBXと接続するらしい。これについて事前に説明が全くなかったのは、別日にやると言うことなのだろうか。後で営業に確認しないと。都は思った。
「…パネルの方を正面へ向けてもらえますか。」
強面のお客は静かに答えた。都がいろいろと聞くので、苛々しているのか都は不安だったが、感情は読み取れなかった。
「承知いたしました。ありがとうございます。」
都は愛想一杯の笑顔で、礼を言った。
そろそろPCが起ち上がった頃だろうと思って、ディスプレイを覗くと、ログイン画面になっていたので、都はバッグの中から認証カードを取り出して、PCの前へ移動し、ログインした。ここからOSが安定するまでまた時間がかかるので、ネックストラップで巻いた認証カードをキーボードの上に置き、今度はバッグの中から大きめのプラスドライバーとドライバーセットを出した。ドライバーセットの方は、プラスドライバーを握りのついたアダプターに差し込む。
「じゃあ、耳をつけちゃおう。」
都はそう言って、床に取り置いておいた付属品の中から、ラックマウントキットの入ったビニール袋をとって中身を取り出す。ラックマウントキットは、ルーターの側面にL字型のプレートを取り付けて、ラックに固定出来るようにする部品だが、ルーターに耳がついたような見た目になることから、「耳」と呼ばれている。
都は「耳」を実際にルーターに仮当てしてみて、きちんとサイズがあってることや、ネジ穴がルーター本体のネジ穴に重なることを確認した。ラック正面にルーターの正面を向けてくれとのことなので、「耳」は正面側の端へ固定することになる。都はネジが入った小さなビニールの小袋を明けて、ネジを手のひらへ取り出し、再度本数がきちんと8本あることを確認した。
「岸谷さん、じゃあ、そっち側つけてもらって良い?」
ちょうどルーターを挟むような位置で、都と岸谷はしゃがんでいたので、都は岸谷にそう言いながら、まずは使い易い大きいドライバーを渡し、次に「耳」を一つと、ネジを4本、手渡した。ネジは落とさないようにね、とちょっと甘やかすような声で言ってしまった。岸谷は、それに応じたのか、はい、と可愛らしく返事をした。
「付け方わかる?」
都は一旦立ち上がって、岸谷の方へ行った。
「こうやって固定すれば良いですよね?」
岸谷はドライバーの軸を右手の中指から小指にかけてで握り、ネジを左手の中指から小指にかけてで握ったまま、両手の残りの指でラックマウントキットを持ち、正しい位置で仮当てして都に見せた。
「うん。それでOK。あんまりきつく締めすぎないように気をつけてね。」
言い方を厳しくしないようにしようとすると、都は、つい甘い話し方になってしまう。もうちょっとビジネス的な喋り方が出来れば良いのかもしれないが、その方向に頑張る気もない。
「これ、どこからでもネジ止めて良いですか?」
岸谷が、ラックマウントキットを固定する位置に仮止めしながら聞いた。四つあるネジ穴は止める順序があるのか気にしているようだ。
「あ、どこからでも良いんだけど、一つやったら、対角線上の斜め向こうをやるのが良いよ。例えばー。」
都はしゃがんで、岸谷が仮当てしているラックマウントキットの左上のネジ穴を指差した。岸谷に近づくと、柑橘系の爽やかな香りがしてくる。溌剌とした香り、なんてものはないのだけれど、そんなものも漂ってくるような気すらした。
「ここを最初に止めてー、そしたらこっち。」
都は右下のネジ穴を指差しながら言った。
「一気に締めないほうが良くて、最初はあまり強く締めないで、全部のネジ止めてから、また同じようにちょっとずつ強く締めて行くのが良いよ。」
サーバーの動作音やエアコンの音で静寂というわけにはいかないが、サーバーの載っているラックは一つしかないので、こういうネットワーク機器の設置場所にしては静かな部屋だ。都は顔が近いこともあって、少し声の大きさを落として喋った。データセンターであれば、環境によっては、この距離でも結構大きい声を出さないと相手にきちんと聞こえない。
「了解です。ありがとうございます。」
岸谷は理解した旨と礼を笑顔で言った。声をちょっと低めたようだが、それでも良く通る。長いまつ毛に大きな瞳は本当に透き通るような光を持っていて、都は見惚れていたかったが、仕事中は仕事が何よりも優先してしまう。都は元いた位置へ戻り、ラックマントキットを固定し始めた。
ラックマウントキットの固定が終わってから、念のため、都は岸谷が取り付けた方のネジにドライバーを挿して、余裕を確認した。慣れてないせいだろう、少しまだ緩かったので、ネジ山が壊れない程度にさらに締めた。それから自分が取り付けた方も念のため確認する。
「じゃあ、ルーターの方はマウントの準備出来たから、ラックにネジ止めをつけちゃおう。」
都はそう言って、さっき強面のお客からもらった、小さな段ボール製の箱をガチャガチャとあさり、ケージナットを四つ取り出した。ラックのマウントレールには、ケージナットを受けるための四角い穴が連続してあり、三つおきに番号が振られている。その番号を指で差しながらたどって、お客の指定の20番を見つける。
「この20番の上の四角い穴と、一個飛ばして、もう一つの穴に、これをつけるのね。」
都は左手の人差し指と親指でケージナットを一個つまむように持って、岸谷に見せた。
「このツメの部分を、裏から穴に、上下にひっかける感じでー。」
そう言いながら、都は実際に摘んでいたケージナットを実際に取り付ける。ラックのマウントレールの成形がいいかげんだったり、あるいはマウントケージの方の成形がいいかげんだったりすると、ツメを引っ掛けて固定するのに苦労するのだが、これはパチン、と綺麗に嵌った。鉄製のマウントレールに振動した音は、ラック全体の鉄を伝導したようで、ラックの中にカコンと言う音が小さく響いた。
「ね。」
「おー。」
岸谷はそうなるんだ、と言う風で感心していた。
都は岸谷に二つ渡して、反対側のマウントレールの同じところにケージナットを取り付けるようお願いした。岸谷は最初の一つは取り付けるのに少し苦労していたが、パチンと嵌ったところでコツをつかんだのか、2つ目はあっさり取り付けていた。
都はラックのネジが入った小さな箱から、今度はネジを2本取り出した。
「そしたらー、ルーターを引っ掛けられるように、先に下のネジを緩くつけちゃうのね。」
都は岸谷にそう言いながら、先ほど取り付けたケージナットの下の方にネジを手で入れて行く。6、7回回すだけで止めて、ネジの頭と、マウントレールの間には隙間を作っておく。岸谷にネジを一つ渡して、同じようにするように言った。
「こんな感じですか?」
岸谷は3回しか回していなかった。
「もう3、4回くらい回してもらって良い?」
「こう、ですか?」
岸谷は都に言われた通り、手でもう4回ほどネジを回した。都は一応岸谷が差し込んだネジを確認した。ちゃんとケージナットに差し込まれていて、マウントレールとの間にちょうど良い隙間もある。
「おっけい。じゃあ、ルーターをマウントしよー。」
「はーい。」
都の軽い掛け声のような呼びかけに、合わせたような返事を岸谷はした。ルーターを梱包していた箱の上に乗せてある、ルーターの両端を二人で持って、持ち上げる。幅は19インチいっぱいのものだが、高さが1Uサイズなので、二人で持てば重さはそれほどでもない。マウントキットをつけた正面の方を手前にして、ルーターをラックに差し込むが、20番より上から入れなくてはいけないので、背の小さい都はちょっと頑張らないといけなかった。少し斜めにして、マントレールの間に差し込んでから、地面と並行にする。さらに、マウントレールに耳が引っ掛かるところまでルーターを差し込む。19インチの幅は二人で並ぶには狭いので、ほぼ、真ん中で岸谷が両手で持ち、都は端を支えるような格好になる。
「で、耳の溝に、ネジを引っ掛けるように入れるのね。」
都と岸谷はゆっくりと、マウントレールの上を耳が滑るように、ルーターを20番の高さまで下ろして行く。ネジを止めるために作られている、マウントキットの下側の溝に、先に差しておいたネジが嵌るよう位置を調整する。ラックマウントキットの溝が、ネジ頭とマントレールの隙間のネジ部に嵌まると、ガチャリと金属のぶつかる音がする。
「こっちは入ったよ。そっちは?」
都は自分の側は上手く嵌められた。岸谷は反対側を嵌めようとして、ルーターを支えながらちょっとずつ動かすのに苦労していた。
「あ、じゃあ岸谷さん、ちょっとルーター支えてて。動かさなくて良いよ。」
都はそう言って、岸谷の背中を回り、反対側のマウントレールの方へ行って、ルータの端を持ち、マウントキットの溝にネジが嵌るように位置を調整する。岸谷はぎっちり握ってしまうのではなく、ゆるく押さえていてくれたので動かしやすかった。かちゃんと、はまった音がすると、ルーターが安定した。都は岸谷の背中越しに、都が自分がさっき嵌めた方を見やって外れていないことを確認した。こうやって片方ずつ嵌めていると、どっちかが嵌るとどちらかが外れる、というのはよくあることだ。
「じゃ、ごめん、そのまま支えててもらって良い?止めちゃうから。重くない?」
都は手をルーターから離して聞いた。ネジに引っ掛けてあるのでそれ程重くないはずだし、背丈のせいもあって、都よりは力はありそうにも見えるので大丈夫かなと思ったが聞いた。
「あ、全然大丈夫です。このまま持ってれば良いですか。」
岸谷は全く平気な風で答えた。
「うん、じゃあちょっと待ってね。」
都はそう言うと、ラックネジが入った小さい段ボール箱から、急いでネジを二つ取り出す。岸谷が使っていた大きいドライバーを拾い上げ、まずは左側のラックマントキットをひっかけるのに使った、すでに差してあるネジをもう少し締める。岸谷はラックの真ん中くらいの位置に立って、邪魔にならないようルーターを支えてくれているが、左利きの都は、左側のネジを締めるために、ネジの前にできるだけ体を持ってきたいので、体をたたむ必要がある。
次に、岸谷の背中を回って移動する。右側のラックマウントキットで、ネジがまだ入っていない、上の溝を覗き、後ろのマウントレールの穴が見えるかどうか確認した。少しネジ穴が隠れてしまっているので、岸谷に、ちょと支えててね、と声をかけてから、ルーターの右端の上部を軽く押した。マウントキットの溝とマントレールの穴が重なったので、すぐにネジを差し込んで、ネジ頭とマウントキットの間に隙間ができない程度まで締めていく。次にルーターを引っ掛けるのに使った、右側下部のネジを隙間ができなくなるまで締めた。都は、また岸谷の背中を回って左側へ移動し、ラックマウントキットの上の溝を覗く。こちらは後ろのマウントールの穴が見えているので、ネジを差し込んで、同様に隙間がないくらいまで締める。
「もうちょっと待っててね。」
都はドライバーを回しながら言った。
「はーい。」
岸谷は慣れない作業をしているので、少し表情のないような声だが、右へ左へと動く都を首を動かしながら追いかけ、優しく返事をした。都はルーターを引っ掛けるのに使った、左側ラックマウントキット下部のネジを、隙間がなくなるところまで締め、ついでにもう少しきつめに締める。さっきと同じような順番で、ネジをきつめに締めて回る。締めて回り終わったら、もう一度さらにきつく締めて回る。
「もう手離しても大丈夫だよ。ごめんね時間かかって。ありがとう。」
ネジ締めを3周したところで、都は岸谷に声をかけた。岸谷は恐る恐る手を離して見た。ルーターはしっかりと固定されて動かなかった。
「重くなかった?」
「いえ、全然大丈夫です。だから先に下のネジ止めて引っ掛けるんですねー。」
ネジで引っ掛けてなければ、それなりに重いし、まして端の方を持って支えるのは余程力がないとだいぶ苦しい。岸谷がルーターから離れたので、スペースに余裕ができた。都は腕を畳まずに、もう一度ネジを締めて回る。ドライバーがネジ山を滑ってしまう手前で、締めるのを止めないといけない。ネジを締め終わってから、ルーターを揺らしてみる。全く揺れず、ラックと固定した部分もがたつくことはない。念のため少し離れて、マウントされたルーターを見る。きちんとマウントレールに直角になっていて、下の回線終端装置が載っている棚や、上部のスイッチとルーターが平行になっていることも確認する。
「おっけーだね。じゃあ、まずパソコンつないで、それから電源入れよう。」
都は一仕事終えたような溜息を吐きながら言った。岸谷は、はい、と可愛らしく返事をしてくれた。ラックマウントは順調に行った。ケージナットにネジがまっすぐ入らなかったり、設置したは良いが、ちょっと斜めになっていて、ネジを緩めて位置を調整しなければいけなかったりと、色々起こることもある。都は出来るだけ岸谷にやってもらおうと、説明しながらやってもらったが、お客が自分たちの設置工事を教育の場に使うなと、怒り出さないか少し緊張していた。しかし、強面のお客は黙って都たちの作業を見守っていただけだった。内心でどう思っているのかわからないが、岸谷がもたついたところはなかったし、てきぱきと設置出来たはずだ。
営業の平下は口も手も出してこなかった。男性の営業が同行すると、時折、設置の時は手を貸してくれることがある。2U以上の大きさのルーターだとそれはとてもありがたかったが、1U程度のルーターで、作業員が2人いる時に、手伝いを申し出られると、それは正直迷惑だった。女子だから、と言う理由で、力仕事は手伝った方が良いだろう、と言う優しさなのかもしれないが、それは女子には現場作業員は務まらないと言っているようなものだ。もちろん、営業が同行するから、と言うことで、現場作業員を1名しか出さない時もあって、そう言う場合は逆に手伝ってもらわないと困る。平下が手伝おうと言わなかったのは、それをわかってなのだろうか。さすが、女子の扱いが上手そうなやつだ、わかってるね、と都は一人ちょっと可笑しく思った。単純に、エンジニアの作業に変に手を出して、何か失敗の遠因になりたくない、これ以上炎上の火種を増やしたくない、と言う冷静且つ、業務上正しい考えからなのかもしれないが。