09-05

2022-02-06

 しばらく歩くと、大きい通りから、斜めに団地街へ入る道へ折れ、団地の中を抜ける道を進む。団地は塗装は直されているが、おそらくは相当の築年数のものだろう。都も高校に上がるまでは、両親と兄と団地住まいだった。団地を見ていると、子供の頃よく嗅いだ芝生のにおい、夕日が沈み始める時間帯の赤い空と奇妙な寂しさ、思い出したくないこと、良い思い出、それらが雑多に混ざり合う、時間が止まったような空間に、引き摺られて行く奇妙な感覚を覚える。
 道中、平下が岸谷に、現場作業員の仕事はもう慣れたかと聞いた。岸谷はこれがほぼ初めての現場作業員としての仕事だと言うと、平下だけでなく、橋本も驚いていた。極端に驚いてはないが、橋本がわざわざ体をひねって振り返り、一行の歩く速度が遅くなる。その驚きには、トラブル続きでお客の温度が上がりきっているところで、本社の客宅ルーター設置の現場作業員が、全くの素人だと言う事態は許されない、一体なぜ岸谷がくることになったのか、と言うクレームめいたものが含まれていた。
 「あ、なので、スーパーSEの間宮さんについてきてもらいました。」
 岸谷は、その若干緊張感を持った営業の態度の変化に、全く臆することもなく、都の方へ振り向き、返した手で都を指しながら、通る声で明るく言った。平下と橋本もその岸谷の指す方向に目をやり、都は二人と目が合った。都が一番最初に感じたのは、二人の目に浮かぶ疑念と不安だった。
 「全然スーパーじゃないけどね。」
 都は困ったような笑顔で、岸谷の持ち上げを否定した。しばらく自分以外が話で盛り上がる中、一人だけ黙り込んでいたので、言葉が自然な感じで出ない気がしたし、笑顔はもっと硬かったろう。
 「そんなことないですよ!こないだのSO部のクレームだって、間宮さん一瞬で黙らせちゃったじゃないですか。」
 岸谷は自慢気に言った。
 「いやいや、一瞬じゃないでしょ。あーだこーだって二人で見たじゃない。」
 都は岸谷の大仰に誇張するのが可笑しくて笑って否定した。OSPFのLSデータベースの読み解きだけでは結局済まず、下山と一緒に、SO部に電話会議で説明までしなくてはならなくなった。全くもって一瞬ではない。
 「あ、間宮さんに言うの忘れてましたけどー、あの後ー、結局お客さんの問題でしたってなったんですよー。そしたら、SO部の人からー、お客さんにどこか問題なのか説明するんで、この前電話会議で説明してくれた人に出てもらえないかとか言ってきてー。」
 岸谷は楽しそうに話している。楽しそうなのは、ずっと営業の二人と、社会人として必要な、表面的に親しく会話すると言う作業に飽き飽きして、本来の意味での親しい会話を都と出来たからだ。そう都は勝手に解釈して、少し嬉しくなってしまう。
 「えー。なにそれー。あたし出ないよー。」
 「下山さんが断ってました。」
 そもそも都は、下山と岸谷とがPMをしている、このプロジェクトに全く関わっていない。それに、都たちの部署の責任区分範囲を超えたところでの問題だ。もちろん、東京でSEを置くような案件では、お客の責任区分範囲まで入って行って、設計サポートやトラブル対応サポートをしたりすることは珍しくない。しかし、この案件はそのためにSO部が入っているはずで、本来プロジェクトメンバーではない都が、そこまで出て行かなければならないとなると、そもそもSO部は何をしているんだっけ、と言う話になる。しかし、もしSO部がこの件でエスカレーションをあげて来て、都のマネージャーがその依頼を承諾してしまうと、都はやらないといけなくなる。
 しかし恐らくは下山が一人で対応してしまうだろう。その場でさらにSO部から質問が来たりすれば、後に下山から何か聞かれる。そんな感じだ。都は下山からテクニカルな問題について相談を受けることは良くあるが、ほとんど下山への説明だけで終わるよう、いつも下山が取り計らってくれていた。稀に先日のSO部担当者との電話会議のように、海外オフショアセンターの担当者や他部署担当者、あるいはお客担当者への技術的な説明のために、電話会議で喋らされることはあるが、それも大抵は一回で済んだ。
 「オンサイトの仕事はされたことはあるんですか?」
 平下が都に向かって言った。慇懃な物腰だが、意志の強そうな瞳に疑いと心配が入っているのは明らかだった。意志の強そうな瞳はどこかで見た。岸谷のそれだ。岸谷も都の方を見ていたので、都は平下に答える前に、岸谷の瞳を覗き込んでしまった。透き通った大きな瞳には何の疑いもなくて、この子は本当にいい子だなと思った。
 「はい。何十回も行ってます。」
 回数など数えたことはないが、都はエンジニアになって6年経つし、勤め始めの頃は、現場作業員を都が務めているオフィスから出していた。都は、現場作業員を出す業務を請け負っている担当にいたこともあり、客宅ルーターの設置には頻繁に行っていた。疑いの混じる眼差しに苛つきを感じて、都は少しぶっきらぼうに返してしまったかもしれない。舐められているのは、派遣社員だからなのか。それとも女だからなのか。両方だからなのかもしれない。
 「であれば大丈夫だろう。」
 橋本が平下の方を見て言った。
 「そうですね。」
 平下も橋本の方を見て答えると、そのまま前へ向き直った。団体の歩く速度は元に戻った。しばらく沈黙の後、橋本は別案件の見積もりがどうなっているかという話を平下と始めた。岸谷は少しづつ歩く速度を落として、都と並んで歩くようにした。
 「今日暑くないですか?」
 岸谷は首元を手で扇ぐ仕草をしながら言った。岸谷は、悪く言ってしまえば、何も考えてないほど屈託のない、良く言えば、温度が高くなっているお客の本社へ、これから行かなければならないことに気圧されない強さを持った、明るい笑顔をしていた。それは岸谷が若いからかもしれないし、もともと持っている強さに起因するものなのかもしれない。
 「ねー。」
 都はワイシャツの襟をちょっとぱたぱたやりながら、同意を示した。岸谷と並んで歩くと、彼女の方が背が高いこともあるのだろうが、なんとなく、頼りがいを感じてしまって、都は少し気持ちが楽になるような気がした。
 しばらく歩いて団地街を抜けると、高さが2メートル以上ある、コンクリート製の壁が続く一角へ出た。壁の向こうには明らかに工場だとわかる建物が見える。壁沿いを歩いていくと、大型トラックが二台行き交っても余裕のある間口の入り口があり、レール式の門は半分だけ開いていた。高い壁は門の近くになると、植え込みを伴う化粧石の低い壁へと変わり、会社名が大きく浮き彫りされた看板が、その壁の中心あたりに位置するよう設えてある。半分開いてる門を潜ると、駐車場スペースが広がるが、車はほとんど停まっていない。静寂が広がっていて、今日は工場は稼働していないようだ。
 門から駐車場スペースまでは、片側一車線の車道がつなぐ。その車道の側には、警備員の常駐している小屋があり、中には一般的な警備員の制服を着た人が二人ほど見えた。工場を兼ねた客宅では、社屋や工場の外にある、警備員が詰めている小屋で入管手続をすることは多い。小屋には突き出した屋根があり、入場券でも買うような小さな窓が開くようになっていて、その窓の下には書類を書くための台が突き出している。
 平下が警備員に挨拶をし、用向きを伝えると、警備員はパソコンをチェックした。事前に申請のあった来客だと確認が取れると、下敷きに挟まれた、申請用紙を四枚出し、記入するように言ってきた。平下はそれを一人つづに配る。下敷きのバインダーにはボールペンが挟まれていた。名前、会社名、連絡先を書かないといけない。都は工事用携帯を持ってこなかったので、この連絡先には個人の携帯番号を書くしかなかった。
 各人書き終わると、ネームカードのついたネックストラップを渡された。ネームカードには、英語でビジターと書かれ、それぞれ固有の番号が書かれている。土曜日だからなのだろう、都たちが最初の来客のようだ。番号は1から4までのものが渡されていた。都は4番だった。
 敷地には建物が2つあり、一つは明らかに工場といった建物で、ボイラーか何かだろうか、いくつものパイプが 建物の壁に縦横に走っているのが見える。一定の速度でモーターが回転しているような、地響きを伴う機械音が聞こえてくる。人気はなくとも、オートメーション自体は稼働しているのかもしれない。もう一つの建物とを渡す橋が、青い空を背景に工場上方から隣の建物へ伸びていた。それは人が通れるようなものではなく、コンベアーで製品か何かを移動させるパイプラインのようなもののようだ。その橋には安全標語のようなものが掲げられている。
 もう一つの建物はデザイン建築のような建物で、半分くらいはオフィス棟を兼ねているようだ。歩きながら、平下が携帯電話でお客担当者と連絡を取り、到着した旨を伝えていた。慇懃な喋り方だが、はっきりと声を出し、嫌味は全くない。仕事も出来る男なのだろうが、これは女子を口説くのも間違いなく上手いだろう。都は変な感想を持った。
 船窓のような丸い窓があちこちについたデザインの自動扉をくぐると、濃い小豆色のカーペットが敷かれたエントランスルームだった。休日だからだろう、電気は最小限しかついておらず、少し暗い。壁は艶のある黒い化粧石に覆われていて、高級感を醸し出している。少し進んだところにエレベーターホールがあり、エレベーターの到着を知らせるチャイム音がなると、四十代後半から五十代前半の、背が高く、おそらくはがっしりしているであろう体格の男性が現れた。下はスラックスだが、上には作業上着を着ている。愛想がなさそうな顔に刻まれた深い皺は、職人気質であるように見えた。一見して強面で怖そうだが、物静かな人にも見える。
 平下と橋本は面識があるようで、初対面ではない挨拶を交わし、本日はどうぞよろしくお願いしますと、腰を折って頭を下げていた。お客の担当者の方は軽い会釈だけで挨拶を返していた。
 「本日ルーター設置の現場作業を担当させていただきます、弊社の岸谷、そして間宮、になります。」
 平下はお客担当者に岸谷と都を紹介した。手のひらを返してそれぞれの名前を呼んで指し、岸谷がどちらで都がどちらかわかるように区切って説明していた。都は平下に名乗った覚えもなければ、名前も聞かれてもいないのに、きちんと平下が名前を覚えているのに少し驚いた。担当PMから申請のあった現場作業員の名前を覚えていたということなのだろうが、女の名前はきちんと覚えるクチかと、都はちょっと穿った見方をしてしまう。平下は都が派遣社員だから相手にしなかったのではなく、自分より年上の女だと判断して、手厚く対応する必要はないと思ったんじゃないか。そんな風に、さらに穿った思いも抱いてしまう。
 紹介された岸谷と都は、本日はどうぞよろしくお願いしますと、それぞれ腰を折って挨拶をした。お客の担当者は、こちらこそどうぞよろしくお願いしますと、会釈をしながら挨拶を返してくれた。愛想は良くないだろうが、そんなに悪い人ではなさそうだ。都は少し安心した。
 5人でエレベータに乗った。エレベーターの中はかなり広く、5人乗ってもまだ余裕がある。エレベーターの中を沈黙が支配した。エレベーターは2階で止まり、客担当者について行くと、オフィスフロアのようなところについた。打ち合わせ卓が手前に二つ三つあり、その向こうに机の島がいくつかあるブロックが見える。そこには数名人がいた。都たちを迎えたお客担当者が着ているものと同じ、ブルーグレーの作業上着を着ている。一番年上でも三十代前半くらいで、若い人たちだった。都たちが入って来たエレベータホールを背にして、そのブロックからさらに奥を見やると、一般的なオフィスのように、机の島の連続が向こうの窓まで続いている。そちらは誰も人がいなかった。都から見た右手一面を窓に囲まれていて、明るいオフィスだ。人がいるブロックは、どうもIT担当のもののようだ。IT担当ブロックを右手にとって、左手をみると、電源が落ちているのか、真っ暗で何も映っていない大型のモニターが二台ある。その向こうにはガラス張りの仕切り板が並び、部屋を区切っている。仕切り板のガラスの向こうには、物置ラックと、サーバーラックとが混在したラックスペースになっていた。サーバールーム、ということだろう。どのラックも、密集した収容になっておらず、スペースとしてもかなり広い。あのラックの何処かに客宅ルーターを設置するのかな。都はそう思った。
 「おはようございます。本日はどうぞよろしくお願いいたします。」
 平下は、そのサーバールームの脇から、さらに奥へ入る場所から出て来た人に挨拶をしていた。橋本もそちらの方に歩み寄り、腰を折って頭を下げている。二人の挨拶は恭しいと言って良く、背中はには若干の緊張が見て取れる。営業二人が挨拶した相手も二人連れで、他のお客と同じように、ブルーグレーの作業着の上着を着ている。一人は四十代の男で、最初の出迎えてくれた男よりも物腰は柔らかいように見える。黒縁の眼鏡をしていた。
 もう一人は明らかに六十を超えている男で、背はあまり高くなく、都よりは大きいが、岸谷よりは小さそうだ。白髪の多い頭は短く刈っていて、胸を張って堂々と歩いている。皺の多い顔の中、目を細めているけれど、その瞳は強い力を持っていて、相手を威圧する雰囲気がある。一見して、すぐに癇癪を起こしそうな気難しい高齢の男という印象で、営業の二人が緊張したのはこの男に対してなのだろうかと都は思った。
 「今日は何も起こらないよな?」
 その高齢の男の最初の挨拶はこれだった。しゃがれ声だが、とても大きい声だ。岸谷とは孫と祖父ほど年齢が違うので、比較の対象にするのも変だが、岸谷の一聴すると大きく聞こえる声は、声質が重たくよく通り、またはっきりと発音するので、少しくらい離れた人の耳元にも届き、きちんと聞こえる。しかしこの高齢の男は、とにかく喉で大きい声を出しているだけで、聞きづらく、うるさい。そしてこの高圧的な発言だ。顔も声も笑っていることで、それは弱められているが、客という立場にあぐらをかいたものの言い方だと都は思った。しかし、もしかしたら、営業とそこまで腹を割って正直に話せる仲なのだ。そんな見方もできないこともない。事実、橋本は苦笑いしながら、本当にご迷惑をお掛けして申し訳ありません、と平謝りしていた。平下は真面目に頭を下げていた。
 「頼むよ!」
 しゃがれた大きい声で叱咤激励した。そう言えば聞こえは良いが、その笑顔には本当の意味での笑顔はなくて、都が勤めるこのキャリアへの、蓄積した不満を爆発させないようにと、抑制するための笑いでしかない。ふと、高齢の男と、都は目が合った。都はよろしくお願いします、という意味で、カバンを両手で前に下げ、頭を下げた。
 「本日、ルーター設置の現場作業員をさせていただきます、弊社の岸谷と間宮です。」
 平下は、高齢の男の視線の移動にすぐに気がつき、慌てたように都たちを紹介した。都と岸谷はほとんど声を揃えて、よろしくお願いします、と言った。都と岸谷は声の音程が違うので、ハーモニーを奏でたような挨拶になってしまった。しかし、これはそれなりに効果があった。
 「はい!こちらこそ、よろしくお願いします。」
 高齢の男は、こちらに向けて姿勢を直し、しわくちゃな笑顔を作り、腰を軽く折って挨拶した。黒縁眼鏡の男は、その高齢の男の、機嫌の良い挨拶に和んだような笑顔を浮かべ、同じように挨拶をした。女子二人が現場作業員として来たのである。しかも一人は若さあふれる新社会人だ。都は年齢は置いておくとして、可愛い系だと言う自負がちょっとある。いや、彼らに比べれば全然若い女の子だ。その二人で明るく挨拶をしたのである。緊張感のある空気をそれなりに和らげられたのであれば、快哉だ。