09-01

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通常端末は起ち上がって使えるようになるまでにとても時間がかかる。OSが起動するのにも時間がかかるが、何よりメーラーが重たかった。起動し切って、メールが読めるようになるのに5分以上かかる。代休明けはメールが溜まっていることが多く、早く読まないといけないのに、と焦る必要もないことに焦りを感じて、苛々してしまう。メーラーが起動し切らないので、先にブラウザを立ち上げて、客宅ルーターのコンフィグ集積システムにログインしたり、必要なシステムにログインして時間を潰すのだが、このブラウザが起ち上がるのにも時間はかかる。
「間宮さん、おはようございます。」
大きく通る声で声を掛けられた。岸谷だった。
「おはよー。…あ、おはようございます。」
都は振り返って、岸谷に挨拶を返したら、その後ろに高松課長もいるのに気がついて、挨拶を足した。高松もおはようございます、と返した。
「すみません、まだ始業時間前なのに。」
都は始業時間よりも20分程度早く会社に着くようにしている。それは会社の入り口の混雑を回避したいというのと、電車の遅れをある程度吸収できるようにしておくという理由だ。
マネージャー陣は、始業前の会議などがあるので、一般の社員や派遣社員よりも早く来ているが、岸谷も早く来ていたようだ。毎日早く出社するようにしているのか、それとも朝早い工事か電話会議かがあって、今日たまたまシフトで出勤していただけだなのろうか。
「ううん。大丈夫だよ。つか、二人揃って朝から何事ですかぁ?どーしましたぁ?」
都は岸谷に気遣い不要と答えた後は、ふざけ気味に言ったので、二人とも笑っていた。
「あのね、間宮さん、急で申し訳ないんだけど、今週末の土曜日、岸谷さん、オンサイトエンジニアで客宅へ行くのね。で、ま、もし間宮さんの都合がつけばなんだけどね、ちょっと岸谷さんについて行ってもらえないかと思ってるんだけど。」
岸谷が何か言おうとしたが、どう切り出していいのか迷ったようなのを高松は察したらしく、高松が話した。確かに、内容的には新入社員が派遣社員にいきなり頼むのは難しいかもしれない。今日から数えて二日後の今週末の土曜日に、いきなり外出か出張を伴う休日出勤の依頼なのだから。
日本拠点の設置や切り替え工事であっても、通常は外部ベンダーに現地作業員の派遣を依頼して、このオフィスから誰かを出すことはない。それは稼働費の問題もあるが、稼働そのものの問題もある。現場作業員の業務をすることになると、当日の現場への往復時間、現場での作業・待機時間には、基本的に通常の業務は全くできない。現場作業専門のベンダーから作業員を出してもらえれば、PM・SEの稼働を本来の業務に使うことが出来る。
WAN回線に客宅ルーターを接続してもらい、電源を投入し、無事都たちのオフィスからリモートで接続が可能になれば、後はリモートで大抵のことは実施できる。しかし、もしなんらかのトラブルでWANが上がらず、リモートで接続する手段がないと、状況を掴むには現場作業員にあれこれ口頭での確認依頼を出し、口頭での報告を受けるしかない。海外オフショアセンターが使っている、現場作業員のPCにインターネットを通じてリモートアクセス出来るソフトウェアは、この会社では導入禁止ソフトウェアとなっている。現場作業専門のベンダーは本来、回線敷設や回線試験の現場作業員を出すベンダーなので、ルーターのスキルは一般的に低く、ルーターのスキルがない人も珍しくない。万が一ルーターのキッティング時にコンフィグミスやコンフィグのセーブ忘れなどがあった時、そういう作業員だとリカバリが効かず、再工事にならざるを得ない。外部ベンダーを使うことには、そういう欠点がある。
このオフィスの人員を現場作業員として派遣する、となる場合、それだけの稼働を割いてでも、確実なルーターのスキルがあったり、プロジェクトしての事情をわかっている人間が現場へ行く必要ある、と判断されたプロジェクトに限られていた。稀に、新入社員に現場作業を体験させるというOJT的な意味合いで、適当な案件をピックアップして、新入社員と、経験のある社員か派遣社員かがペアで現場作業員をすることもあるので、高松の依頼はこれなのかなと都は思った。
「はー。また急ですねえ。」
都はかなり間の抜けた言い方で言ったので、二人は笑っていた。
「いや、ほんと申し訳ない。こんな急なタイミングなんで、もちろん間宮さん都合悪ければ、断ってもらって全然良いんだけど。ま、もちろん末谷さんには僕から後でちゃんと話しておきます。」
派遣社員は社員同様所属のマネージャーが決まっていて、基本担当マネージャーからの業務命令で動くことになっている。なので厳密に言えば、高松からこういった業務アサインをするのはNGだ。そのため、高松は末谷に筋は通す、ということを言っている。
「それって岸谷さんがやってる案件ですか?それともただのオンサイトエンジニアですか?」
そのどちらかによって、準備の量が変わるので都は聞いた。もし、岸谷がPMを担当している案件で、岸谷と一緒にやっている別のPMがオフィスに残り、リモートで対応する、というのであれば、岸谷はプロジェクトの事情をわかっている人間として現場へ行くわけだから、トラブル時や、もし切り替え工事もあるのであればその際の、お客からの問い合わせなどに答えなければいけない。そうであれば都はそれもサポート出来るように、少しその案件の概要や、全体の設計などをかじっておく必要があった。
そうではなく、このプロジェクトは他人の案件で、岸谷は単に現場作業員として現地へ赴くということであれば、都は現場の物理作業のみサポートすれば良い。現場で客などから受けた質問は、そのままこのオフィスでリモート待機しているPMやSEに取り次げば良いだけだ。もちろん、このオフィスの人間を現場作業員として送り込んでいるのだから、万が一WANが上がらない、リモートから接続できない、などのトラブル時は、PMたちをサポートする必要は出てくるが、それ自体はこのオフィスでの業務内容をわかっていて、ルーターのスキルがある程度あれば、大したことではない。
「あ、あたしの案件じゃないです。」
「うん、影山さんチームの案件。岸谷さんはただのオンサイトエンジニアとして、ルーター設置と、WAN開通と、LAN切り替えの立会いをするだけ。」
岸谷が答えた後、高松が付け足して説明した。日本の回線はほぼトラブルなく無事に開通するので、WAN開通とLAN切り替えを同日に実施することは多かった。回線開通の現場作業員が、ルーター設置の現場作業員も兼ねることが出来るので、場合によっては、回線そのものの開通作業、客宅ルーターのWAN開通作業、LAN切り替え作業と、全部一気にやってしまう場合もある。
「ただのオンサイトエンジニア、ってことですか?」
都は念のため聞いた。
「そう。影山さんチームで統制をとって、WANが開通してしまえば、あとは彼らでリモートで全部やってくれる。ま、多少ね、お客さんがLANポートわからなければ教えてあげてとか、冗長試験時に、ケーブル抜いてくれ、とかはあるかもしれないけど。」
高松が回答した内容は、すべて現場作業員の通常の業務範囲なので、特に問題はない。ただ、冗長試験があると言ったのは気になった。
「どんな案件ですか?ちなみに。」
高松によれば、対象の日本拠点は北関東の郊外住宅地として発展した土地にある、製造業系の会社の本社だという。メイン、バックアップ構成で、メインはMPLS網に専用線で直接接続、バックアップはインターネット回線で、MPLS網にIPSecゲートウェイを介し接続する。既に専用線の敷設と、インターネット回線の開通は完了しているという。対向拠点は東南アジアの島嶼国にある拠点で、そちらも同じようなメイン・バックアップ構成だが、WAN開通は既に終わらせてあり、LAN切り替えは、本社と同時に実施することになっているという。
また、このお客は国内海外ともに他キャリアのWANネットワークを使用している。しかし、その既にWAN開通が終わっている島嶼国の拠点について、そのお客のメインキャリアは自営MPLS網ノードへの専用線による接続を提供していない。そのため、今回都が勤めるこの会社のMPLSを、日本とその国の拠点との接続のためだけに導入することにした。当該の国でのインフラは無線が多く、天候によって回線の品質が非常に左右されやすい。有線で回線を敷設することを企図しても、避けがたい困難に遭遇し、キャリア区間の何処かが無線になることを余儀無くされることもある。
この二国間接続のためのMPLS網構築を足がかりに、クラウド関連の商材を売り込んでいきたいという営業側の思惑もある中、その島嶼国での専用線、インターネット回線、ともに開通に当たって色々なトラブルに遭遇し、開通が遅れ、また開通試験も数回やり直してようやくWAN開通にこぎつけた。現在当該拠点は、お客の自前インターネット回線で、直接本社のインターネットゲートウェイと暗号化トンネルで接続しているが、当然品質もあまり良くない。この拠点の工場は規模拡大が進んでおり、本社間との通信品質の向上はお客の中で喫緊の課題になっていて、開通の遅延、度重なるトラブルは、お客の温度を高くしてしまっていると言う。
「その情報は聞きたくなかったっすねー。」
都がふざけ気味に嫌そうな調子で言うので、高松は苦笑いだ。
「いや、ほんとにそんなところへ行ってもらうのは申し訳ないんだけど、ま、ただ、一応プロジェクトには関わっていない、オンサイトエンジニアとしてだけ行ってもらうし、営業も二人ほど同行するので、ほんと、現場で作業だけしてもらえれば良いはずです。」
良いはず、と婉曲表現になっているところが若干気になったが、揚げ足をとっても仕方がない。正直、怒っていると聞いているお客のところへ行くのは気が進まない。
「ルーターは2台ですよね。持って行くんですか?それとももう現地へ送ってあります?」
都は聞いた。持って行くのであれば、ルーターのサイズによっては当日一度オフィスへ出社して、そこからタクシーで行ったりしないといけない。
「ルーターはもう客宅へ送付済みで受け取り確認も出来ているそうです。あ、あとね、意図的にコンフィグを入れてないって言ってた。なので、WANだけ開通させるスクリプトをPM・SEの方で用意するから、それを現場でコンソールから流し込んで欲しいそうです。WANさえ疎通できれば、後の細かいコンフィグはこっちにいるSEがリモートで流し込むと。」
ぎりぎりまでヒアリングが終わらず、WAN開通時に全てのコンフィグを流し込めないと言うことは良くあることだ。海外拠点の客宅ルーター設置時も、WAN開通に必要な最低限のパラメーター、WAN側のIPアドレスと、ルーティングプロトコルがBGPであれば客宅ルーターにアサインするAS番号だけを、海外オフショアセンターへ提出して、回線が引き渡された後は粛々とWAN開通はやってしまい、LAN切り替えに必要なパラメーターは確定次第送る、と言うやり方を取らざるを得ないことは少なくない。
海外オフショアセンターでは、何もコンフィグされていない客宅ルーターを客先へ発送し、WAN開通時、現場作業員が客宅ルーターにコンソール接続したPCに担当エンジニアがリモート接続し、コンフィグをその場で投入して行くという方法が通常であるが、日本ではこのリモート接続のソフトウェアが使えないため、発送前のキッティング時にコンフィグは入れておくのが通常だ。
しかし、今回の発送済みの客宅ルーターには、WANインターフェイスにIPすら振っていないようだ。まっさらなルーターを送っただけ、と言うのは少し変だと都は思った。
いずれにせよ、その日本拠点のWAN開通、及びLAN切り替え、海外拠点のLAN切り替え、お客試験、日本拠点の冗長試験、海外拠点の冗長試験と、長い待機が予想される。現場作業員のベンダーでは、待機時間は最長で4時間、通常であれば2時間と決められている。お客の温度が高いこともあり、時間なので作業員を帰らせます、と言うわけにはいかない。それでこのオフィスから現場作業員を出すことになった側面もあるだろう。日本拠点の現場作業員なので、海外拠点の冗長試験に付き合わされる必要は本来はないはずだが、今回はそうもいかない気がする。
日本拠点については、保守に渡された後の言語事情もあり、たとえ通常案件であっても客宅ルーターへの書き込み権限を東京で保持することができる。それもあって、当初は案件担当のSEと岸谷とで行く予定だったのだが、客宅から全体を俯瞰するよりも、網内の保守ルーターや、プロバイダエッジルーターへログインできる環境で俯瞰した方が、全体としての設計やルーティングを確認するのには適している。まして客の温度が高くなっている案件だ、海外拠点の方で何かルーティングや設計の不具合があった時に、日本の客宅からは海外拠点の客宅ルーターへログインして確認したり、網内でのルーティングを確認したりが出来ない。海外拠点の客宅ルーターや網内保守ルーター、プロバイダエッジルーターも全て読み取り権限のみだが、専用のログインサーバーを介さないとログインが出来ない。そこにはオフィスの社内LANからのみアクセス可能なので、客宅からアクセスするのは不可能だ。
「とにかく了解しました。細かいことは岸谷さんに聞けば…いい、の、かな?」
都は案件内容などは大体わかったので、後はスケジュール確認やら、持ち出しPCの貸し出し申請、工具など持って行くものの準備をしないといけないが、一緒に行く当人と打ち合わせれば良いだけだ。しかし、岸谷が現場作業員をやったことがあるのかとか、どの程度客宅ルーターの現場設置作業について知っているのかなどがわからず、岸谷と話すだけで大丈夫かどうかちょと不安になったので、言葉が細切れになってしまい、細切れになる毎に首がちょっとずつ傾いた。岸谷と都は目を合わせて笑ってしまった。
「じゃあ、本当に申し訳ないのですが、引き受けてもらっちゃって良いですか?」
高松は聞いてきた。
「はい、大丈夫です。岸谷さんとお出かけしてきます。」
都が軽口に言うので、高松も岸谷も笑っていたが、二人とも都に礼を言った。都は気遣い不要な旨返した。
「後は岸谷さんから当日の開始時間とか、集合場所なんかを聞いてもらえればと思います。岸谷さん、後は大丈夫?」
高松は岸谷に聞いた。おそらく高松は、新入社員が直接派遣社員に業務の依頼をするのはまずいと言うことで、マネージャーの立場から都に依頼し、内容を説明するために岸谷と一緒に来たのだろう。もう自分はお役御免で良いよね、と言う意味もあったろうが、この先はマネージャーのスーパーバイズなしで仕事を進められるよね、と言う指導でもあるようだ。
「はい、大丈夫です。」
岸谷は元気にいつもの通る声で了を返した。