08-02

2022-01-21

08-02

 夏場は海水浴場として賑わい、駐車場沿いの砂浜には海の家が立ち並ぶ。学生の夏休みに当たる期間になれば、アルバイトの子が駐車場に立って、駐車料金を徴収されるのだが、それ以外の期間であれば無料の駐車場だ。その駐車場へ入ると一気に真っ青な空が開けて、文字通りの水平線に海が広がる。
 「来たー。」
 そう思わず声に出るくらい単純に興奮してしまう。車はサーフィン客の車と、この辺りで仕事をしている営業車や工事関係の車が、休憩のためにいくらか止まっているけれど、どこでも止め放題、というくらい空いている。
 都は砂浜と駐車場を仕切るコンクリートブロック直前の駐車スペースに、車の前方を海に向けて停めた。エンジンを止めると、波の音が大きく聞こえてくる。クーラーも切れたので、フロントガラスから差し込む残暑の陽射しは、車内の温度を上げていく。
 「着いたー。おひさー。」
 都はシートに背中を預け、フロントガラスの向こうに広がる、波がひっきりなしに打ち寄せる海と、その手前に広がる砂浜に向かって挨拶した。助手席においてある小さなトートバックからスマートフォンを取り出して、電話やメッセージがないか確認した。特に何もなかった。時刻は11時半を回っている。都は腕時計を外しながら周りを確認した。都の車から見て、真左の少し離れたところに、白いステーションワゴンが停まっている。外回りの途中に休憩で立ち寄ったらしい。運転席には男性が乗っていて、スマートフォンか何かを見ている。都が停めている駐車ブロックの2列ほど後列、都の車の右後方向にバンが1台停まっている。おそらくサーファーの車で、中に人がいるかはわからない。さらにその後ろのブロックにもバンが見えるが、それは結構距離がある。
 都は運転席で着替えるのは諦めて、車をいったん降りた。ドアを開けると波の音がさらに大きく聞こえて来て、都のからだ全身に響くようになった。潮の香りも鼻腔いっぱいに広がる。秋だ、ということなのだろう、陽射しが厳しい割りには、海から吹く風はどこか涼しく、もう夏が終わっていることを、砂浜にいくつか残る海の家の基礎部分とともに知らせているようだ。車の外で都は運転用のスリッポンを脱ぎ、裸足でアスファルトに下りて、スリッポンを運転席のフロアマットの上に置いた。アスファルトは熱くなっているが、耐えられないほどではなく、そのことも秋になることを教えている。都は後部座席へ乗り込んでから、ドアとシートの間から腕を伸ばして、ドアのマスターロックで念のため戸締りをした。
 後部座席のガラスはノーマル仕様でも色付きのガラスなので、スモークガラスとまではいかないが、外からは中は見えづらい。一応、また周囲を確認して、こっちに視線がないことを確認しながら、シャツのボタンを全部外した。もう一回周囲を確認し、念のため後ろを振り返ってリアウィンドウから後方も見やる。誰もこちらを見ていなければ、こちらに近づいてもこない。都はシャツを脱ぐと、インナーのキャミソールも脱ぎ、一旦上半身裸になってから、急いでシャツを肌の上から着直した。左の袖を通すのに少しまごついてしまったが、一旦着てしまえばあとはボタンはゆっくり掛ければよかった。ボタンを掛けながら、もう一度左右を確認する。変な興奮が心臓の鼓動を高めるので、クーラーの止まった車内では汗がどんどん出てくる気がした。
 シャツのボタンは真ん中あたりの2つだけを掛けると、また左右の視線のありかを確認してから、ショートパンツを脱いだ。車の中できょろきょろしている方が逆に不審だと思うと可笑しくなって来て、都は一人でにやにやしてしまい、さらに不審な感じになってしまう。下着を脱いで、素の尻で車のシートに座るという稀有な感覚を楽しんでいる暇もなく、急いで下着なしで、ショートパンツを履き直した。車の中での着替えは背丈の小さい都でも窮屈だ。
 「いーっ。」
 ショートパンツを履き直す時、脚を入れたり腰をしっかり収めたりするのに結構動くので、声が出てしまう。車も揺れてしまっているだろう。本当に不審だと、また都は可笑しくなってしまう。
 トイレやちょっとしたコンビニエンスストアへの買い物に使えるような小さいトートバッグとは別に、タオルなどを詰め込んで来た大き目のトートバッグに、脱いだ下着を丸めてしまいこんだ。都は後部座席から助手席へ身を乗り出して、助手席のシートに置きっ放しにしてある小さなトートバッグから、マンションの部屋の鍵、実家の鍵、車の鍵、それと2、3の小さなキーホルダーをぶら下げてあるキーリングを取り出すと、それだけ持って車から裸足のまま出た。車に鍵を掛けると、キーリングをショートパンツのポケットにしまい、砂浜に向かって歩き出す。日焼け止めはばっちり塗って来た。

 アスファルトは裸足で歩くとちょっと痛いのだが、ゆっくり歩けばなんのことはない。脛くらいの高さのコンクリートブロックは砂止めなのか、車の侵入止めなのかはっきりしないが、それを登って越え、砂浜へ足を降ろす。しばらくは小さな貝殻がいっぱいあって、気をつけて歩かないといけないが、それを過ぎると、少し深さのある、砂だけのゆるい傾斜へたどり着く。深い砂に素足が埋まる感触は気持ち良かった。砂はまとわりつくでもなく、さらりと通り過ぎるでもなく、ちょうど良い干渉で足を包む。都はゆっくりとその感触を楽しむように歩きたかったが、そうもいかなかった。残暑の陽射しはこの深い砂を焼いていて、かなり熱い。都は足が熱いのを我慢しながら、少し小走りに、その傾斜を駈け下りる。波打ち際で波が洗うことでその熱を冷ましてくれていて、平らになっている辺りへ急いだ。
 「わ、わっ。」
 結構傾斜部分は長いので、足の裏が熱くて仕方なく、砂の傾斜を駆け下り続けるしかない。そのことがだんだん楽しくなって来て、都はつい声が出てしまう。
 ようやく湿り気のあるところまで来た。砂に薄く水が張ったような湿った砂はちょっと冷たく、足触りは乾いた砂とは別の味わいで、クッションのような感触もあって楽しい。熱くなった足の裏は放っておくと低温火傷みたいになってしまうといけないので、波打ち際まで行ってしばらく足首くらいまで波につけておこうと思った。波が足を洗うと水は結構冷たくて、ひゃあっ、っと声が出てしまったけれど、しばらく波に洗われるままにしておくとすぐに慣れた。足を冷やしながら、残暑の強い日差しを浴びる。それでも吹いてくる潮風はすでに秋の涼しさがあって、潮の香りと湿り気を含んだ風が、服と素肌の間を抜けていくのは気持ちが良かったが、もしキャミソールやタンクトップだったら、ちょっと寒いと感じたかもしれない。
 しばらくどこを見るとでもなく、海を眺めていた。何かを考えようとしても、考えるそばからそれは、砂浜に書いた落書きを波が掻き消して行くのと同じように、一波の満ち引きと同時に消えて行ってしまう。
ここでシャツもショートパンツも脱いでしまって、裸で強い日差しを浴び、秋の到来を知らせる涼しい風に身を晒したら、どんなに気持ち良いだろうと都は思った。しかし周りを見ると、深い砂の傾斜を登った空き地には、モーターパラグライダーを飛ばそうとエンジンをかけている人たちがいるし、都の位置から北の方向には、波打ち際で戯れている家族連れもいて、とてもそんなことはできる環境ではないし、出来たとしても、そこまで社会性を捨てる勇気も都にはない。せいぜい、下着をつけない格好で、潮風を浴びて、それが肌と服の間を抜けて行くのを楽しむくらいが関の山だった。いや、それが関の山で良いんだけど、と都はちょっと思って可笑しかった。
 北の方向にいる家族連れの親たちは、都のように土日に仕事があって、今日はその代休なのだろうか。もともと土日が仕事で、平日に休みがある人たちなのかもしれない。あるいは夫婦のどちらかがそうで、どちらかが休みを合わせたのかもしれないし、どちらかが専業なのかもしれない。南の方向には少し沖の方にサーファーが一人いるが、砂浜には誰もいない。ずっと先にある、海に繋がる川の堤防まで無人の砂浜が続く。よくは見えないが、おそらくその向こうもしばらく無人だろう。都はそっちの方へ歩くことにした。
砂浜を何も考えず、ただ歩く。裸足で砂を踏みしめ、足の指で砂を掴むように歩く。時折波打ち際に寄っては、波に足を洗われる。ふと油断した時に、ちょっと高い波が押し寄せて、股下近くまで波に襲われる。その冷たさに思わず声をあげてしまう。
 素肌を出来るだけ潮風に晒したい。海と砂浜以外の余計なものはほとんど視界に入らない場所で、開放され、広がり、道という概念が消えてしまうほど圧倒的な自由がこの海浜にはある。街中の建物はどんな道をも隔てしまう。どこへ進むにも何度も曲がらなければならないし、まっすぐ進むにしても正しい道を選ばなければいけない。郊外にいても、木々を避け、山や谷を乗り越え、辻では道を選ばなければならない。しかし砂浜ではそんなことは考えなくていい。頭の中を覆っていた、曲がりくねって絡みあう数々の思考は、どんどん解れ、崩れ去り、空になっていく。出来るだけ自分を解放したい。だから着ているものも全部脱いでしまいたい。
 サーファーが沖の方で波に乗っては、飲まれて行くあたりを通り過ぎた。都は後ろを振り返って、後ろ向きに歩く。家族連れがだいぶ遠くなった。モーターパラグライダーは方向としてはそっちの方へ飛んで行っている。都は進行方向に向き直り、少し目を細めて遠くを確認する。視界に人は誰もいない。都はシャツの止まっている残りの2つのボタンを外して、胸骨から腹までの素肌を潮風に晒す。時折強い風がシャツをはだけてしまって、胸が露出してしまうが、誰も見ていないだろう。都は両手を頭の上で組んで、腕を上へ伸ばした。シャツは肩へ寄ってしまって、露出した上半身が潮風に当たって気持ちが良い。男の人なら、上半身裸になって砂浜を歩いていたって咎められないのに、なんで女子だけはいけないんだと、都は少し納得がいかない。兄と暮らしている頃、兄が休日出勤の代休で平日に休みを取れた時、都も当時やっていた郵便局の内勤のアルバイトの休みを取って、ここへ連れて来てもらったりした。都は周りに兄以外に誰もいないことを確認すると、上着を脱いで上半身裸になり兄から逃げ出して、上着を急いで着させようとする兄と、大笑いしながら追いかけっこになったことを懐かしく思い出す。結構長いこと上半身裸のまま走ったり、思い切って下も脱いでしまったこともあったと考えると、当時は若かったのだな、と可笑しい。
 モーターパラグライダーの音がこちらへ向かってくるのがわかったので、都はシャツを閉じ、ボタンを2つほど止めて、胸が肌け出ないようにした。シャツは明らかに開いていなければそうならないような形でたなびいていたはずので、上空から変な女だと思われたかもしれない。でも、構うもんか。都は背筋をまっすぐ伸ばして、前を向き、堤防を挟んでどこまでも続くような砂浜の先を見据えながら、ちょっと自信ありげさえである笑顔を浮かべ、前へ進んだ。堤防までたどり着くと、どこからかお昼の時間を知らせるチャイムが聞こえて来た。
 1時間ほど砂浜を裸足で散歩して、車へ戻る。駐車場までの乾いた砂の傾斜を歩くと、裸足にまとわりついた湿った砂を拭き落としてくれる。しかしゆっくり歩いていられるのはちょっとの間で、また残暑の陽射しにしっかり焼かれた熱さが、海水や水を含んだ砂で冷えた足をどんどん温めて行き、結局少し小走りに駆けて戻らないといけない。駐車場のアスファルトに踏み出した足は湿った砂が落ちきっていなくて、砂まみれで汚かったけれど、それがなんだかたくさん遊んだ証か褒美のようで、奇妙な誇らしさがあった。
 都は運転席のドアを開けて、上半身を突っ込み、ドリンクホルダーに挿してあったペットボトルの麦茶を取り出し、車の外で海を見ながら二口、三口と飲んだ。風が涼しかったせいもあって、そんなに汗はかかなかったが、湿った潮風に1時間も身を晒していたせいもあり、肌はべたべたする。波の音はうるさいくらいで、モーターパラグライダーのエンジン音もやかましいのだけれど、この辺り一帯を静寂が支配しているようにも感じられて、それは居心地が良かった。もう少し砂浜を歩きたいとも思ったが、少し疲れてきたし、運転中に眠くなってもいけないので、やめた。帰りにパーキングエリアによってソフトクリームを食べるんだという決心も思い出した。
 助手席へ手を伸ばして小さいトートバッグを取り、車の鍵をかけ、裸足のままトイレ向かう。アスファルトは歩くと少し痛いが、我慢出来ないほどではない。砂浜ほど熱くもないのは、アスファルトは目の粗い粒子状なので、砂のように熱くなった細かい粒子が、隙間なく裸足に接するわけではないからだろう。トイレはコンクリート剥き出しの作りで、デザイン性のある様相だ。裏手にはシャワーも付いている。トイレの建物の周りには砂溜りがあちこちに出来ていて、それを想定してなのか、少し階段を登る高い位置に作られていた。バリアフリーのスロープが結構長いのは、坂を緩やかにしたかったからだろう。階段を上がると、床は湿り気のある砂まみれで裸足で入って行くのはそれなりに勇気がいる。
 トイレを済ませて車に戻り、トランクを開け、中から水道水をいっぱいに入れた2リットルのペットボトルを出す。都は、いつでも海へ行って裸足で砂浜を散歩出来るように、これを常に2本車に積んでいた。運転席のドアを開け、足を外に出したまま座席に腰をおろし、ペットボトルの水で足を洗った。しかし、一度波に股下までさらわれたせいで、腿の辺りにも砂がついていたので、都はアスファルトの上に立ち上がって、腿のあたりから洗わなくてはいけなかった。波の音や風の音はうるさく、洗い流した水がアスファルトに落ちる音がかき消されるくらいなのだが、それでも静寂を感じ、流れ落ちる水の音だけが聞こえるような気がするのは不思議だ。モーターパラグライダーは着地していてエンジンを停めていることが、その静寂をさらに強調している。脚を洗い流したところで1本使い切ってしまったので、都はもう一本のペットボトルをトランクから出して、足や指を綺麗に洗った。ペットボトルの水は3分の1くらい残った。
 ペットボトルを後部座席のフロアマットの上へ放って、車の中に足を入れるとドアを閉め、濡れた足でブレーキペダルを踏みエンジンをかけた。しばらくしてエアコンの風が冷たくなると、とても気持ち良かった。後部座席の方へ体をひねって伸ばし、トートバッグから大きいタオルを取り出して、濡れた足を拭く。残暑の陽射しを浴びて1時間も歩けば、心地良いと言っていいような疲労感が全身を包む。バニティミラーを開いて、都は自分の顔をチェックする。日焼け止めと化粧下地をしっかり塗って来たから、日焼けは大丈夫かなと思った。すっかり前髪が風でバラバラになってしまったので、手で直す。助手席の小さなトートバッグからポケットティッシュを取り出して、顔の汗を軽く押さえて取ってから、今度は携帯用の櫛を取り出して、髪を梳かす。さっきトイレの鏡で、髪直さないと、とは思ったのだが、濡れた砂汚れがたくさんある床のトイレに裸足で長居したくないと思って、用を済ませてさっさと出て来てしまった。車のサンバイザーについているバニティミラーってほんと便利だな、と都は使うたびに思った。肌が露出する部分には日焼け止めをしっかり塗って来たので、腕や足の甲をチェックしたが大丈夫そうだった。都はそんなに色白でもないが、年齢的にも日焼けは気にした方が良いだろうことは認めざるを得ない。
 麦茶を少し飲んでから、ブルートゥースでつないだポータブルプレイヤーの再生ボタンを押し、シートベルトを締め、車をバックさせた。都の車が停めてあった場所の運転席あたりの脇には、都が足を洗い流した水が、円状に濡れた部分を作っていた。
 「…なんかやらしい!」
 それが何だかんだ恥ずかしいもののような気がして都は笑ってしまった。
 帰路、行きに寄ったパーキングエリアの反対側にある、上りのパーキングエリアに立ち寄った。パーキングエリア内には、土地にゆかりのある文学者たちの小さな碑がいくつも並ぶ公園がある。予定通りソフトクリームを買って、その公園の木陰のベンチに腰掛け、味わう。遊び疲れた体に甘いものはとても美味しく、ほぼ無心で食べてしまった。昼下がりの暑さもまた、冷たく甘いものを味わうのにちょうど良かったのだろう。公園に茂る木々からツクツクボウシの鳴き声が聞こえるのは、半分くらい食べてから気がついた。
 ソフトクリームを食べ終わってからもう少しの間、今年最後の夏の残り香になりそうな蒸し暑さをぼんやりと楽しんでいたかったが、そうするのであればそろそ日焼け対策をやり直す面倒をしないといけない。都は小さなトートバッグからスマートフォンを取り出し、母親に電話をした。今日は代休をとって海に行って来たから、これから帰る旨伝えた。都の実家は、都の住む賃貸マンションと海とのちょうど真ん中あたりの位置にある。そのマンション近くの国道は、昼下がりから夕方まで慢性的な渋滞が起こる。実家に立ち寄って、夜遅く帰ることにすれば、都は母の顔を見ることができるし、母に顔を見せることもできる。そして渋滞を避けることもできる。そんな一石二鳥な按配なので、そうしたかった。都は電話を切ると、少し跳ねるようにベンチから立ち上がり、コーンのスリーブをゴミ箱に入れて、車へ向かう。都はその公園を振り返った。緑のにおいと、明らかに陽射しは真夏よりは弱いけれど、それがもたらす蒸し暑さとが、ちょっと名残惜しかった。