08-01

08-01
朝は結構過ごしやすい気温だったはずで、クーラーもつけず窓を開けて軽い朝食を食べ、コーヒーをゆっくり飲んだはずだが、駐車場までの道のりは夏のような暑さになっていて、都は嬉しくなった。紺色のミリタリー調の半袖シャツ、ジーンズのショートパンツにビーチサンダル。この格好がおかしくない天気で良かった。コンビニエンスストアで冷たいカフェオレを買って、大きな公園の外周の歩道を歩く。自分の素足の足が交互に地面から離れては、着地するの見てみる。少し小さめのビーチサンダルを履いているから、鼻緒がなければ裸足でコンクリートタイルの上を歩いているように見える。右足首に回したオレンジ色のアンクレットを除いた素脚を、夏かと間違えてしまいそう熱気を帯びた生温い風に晒しているのは心地良かった。ビーチサンダルも脱いで裸足で駐車場まで歩いてしまいたい。こんな天気の良い日の午前中に、植樹の多い公園という、人間社会と自然との間にあるような空間の外周であっても、そこを靴も履かず裸足で歩くなんて、人目に奇異に映るような行為に及ぶ勇気はなかったし、それができたとしても、これだけ残暑厳しい陽射しの中、コンクリートやアスファルトは熱くなっていて、とても裸足で歩けるようなものではないだろう。
通勤ラッシュが終わってから家を出たので、すでに慌ただしい人通りは無くなっているが、土日と平日とでは街の雰囲気は全く違う。道路を行き交う車には、仕事中の人間が漂わせる険しさと、どこか構えた空気というのが、そのまま銀や白のボディに現れているような気がする。今日は仕事ではない人たちは、家事や人付き合いなどの用事で忙しいとしても、仕事をしている人とは明らかに持っている空気が違う。駐車場までの道のり、行き交う人はそういう人が多い。それらのことが今日は平日なんだ、と実感させる。通り過ぎる、就学前の子供を連れた女性は、カジュアルな服装から専業主婦なのだろうと思われた。顔をちらりと見てみたが、都より若そうだ。望んで専業主婦になったのか、それとも勤めていた会社の福利厚生の悪さや、子供を育てながらキャリアを積むことの出来る環境がなかったりで、仕方なく辞めたのかはわからない。どちらにしても、都よりもはるかに大人な人間に見えたし、それなりに充実して生きているように見えた。しかしいろいろなストレスを抱えているような影が見え隠れする。それは、専業主婦で子供を育てる苦労を、都がよくも知らないくせにくみ取ることができているということなのか、それともいわゆる男の一般論としての、女の幸せを掴んでいる女に対する嫉妬が都にもあって、粗探しをさせるのかはわからなかった。
明らかに都を見て通り過ぎる人もいる。男の人であれば、もしかすると地面まで伸びた生脚に気を取られたのかもしれないし、下手をすると可愛い子だと、思って見てくれたのかも、と馬鹿な想像をしたりもする。しかしおそらく多くは、いくら童顔、小さな背丈と言っても、三十半ばを過ぎた女が、露出の多い格好で、しかもビーチサンダルで歩いていて、変な女だと思っているんじゃないか。そんな気もして、つい伏し目がちに背中も丸くなる。しかし、これは自分が好きでしている格好だし、自分のスタイルだ。残暑が残る晴れた日に、開放的な格好をしないなんて、それこそ縛られることが嫌いな自分を自ら縛るような行為だと思い直して、背筋を伸ばし、顔を上げ直す。
平日の高速道路は、仕事の車や運送のトラックで混んでいるが、大きな道路を連絡するジャンクション以外は渋滞もない。高速道路から有料道路へ連絡する、長いカーブを描きながら上って下るランプを抜け、有料道路に入ると、気持ち良いスピードで車を進めることが出来るようになった。有料道路区間のちょうど真ん中あたりに位置する、この有料道路唯一のパーキングエリアに立ち寄る。小さなパーキングエリアで、食堂と、店舗の面積は一人暮らしの部屋並みの狭さのお土産屋があるだけだが、鉄道のコンテナを改造した軽食スタンドが外にあったり、建物の白い壁は、天気の良い日には茂る緑によく映えたりして、一瞬ちょっといい感じのところへ来たんじゃないかと錯覚してしまう。
運転用のスリッポンからビーチサンダルに履き替えて車を降り、飲みきったカフェオレの空きカップをゴミ箱へ捨てて、トイレに立ち寄った。トイレの前にある大きなディスプレイは、高速道路の渋滞情報を映し出しながら、状況を自動音声がアナウンスしている。レンガタイルが敷き詰められた休憩スペースでは、スーツ姿や、作業着姿の人たちが話し込んだり、どこか遠いところに視線を置きながら携帯電話で話をしている。残暑が厳しいけれど、天気の良い青空の下、アクセルを踏み続けて一定の高速で走り続けなければならない道からふと外れ、一時の休息からくる開放感からか、声が弾んでいる。それとも何か良い商談でも成功させたのかもしれない。有料道路の脇で、アクセルを踏むこともなく、ハンドルを握って前方やミラー越しに注意を払う必要もない環境が、さらにその興奮を高めている。
軽食スタンドでソフトクリームが売っている。都は食べたい欲求にかられたが、上り側のパーキングエリアにも売っていたはずだから、帰りにしようと思った。帰りに食べられると思うと、なんとなく気分が浮かれてきた。そんな単純さが自分の中に残っていることに、都は可笑しくなった。ソフトクリームは子供の頃、親や兄と一緒に出かけたり、旅行へ行った時に食べられるものだというイメージだ。働くようになって、確か美術館だったと思うが、出かけたその帰りに、美術館のある大きな公園の軽食スタンドで初めて一人で食べた。自分は大人になったのだな、とその時初めて実感した記憶がある。家族と一緒に食べるものだという刷り込み、暑い夏の熱気と人混みの騒がしさ、親や兄にいつも頬についたクリームを拭き取ってもらわないといけないくらいのがっつき。そんなものが遠い昔のように感じたものだ。けれどソフトクリームは変わらず美味しい。その美味しさをまた楽しむためには、きちんと事故なく海まで行って、海でも怪我なく過ごし、無事帰ってこないといけない。そんなことをきちんと考えるあたりが、自分の気難しさをよく表しているなと都は自虐的に思った。自動販売機で冷たい麦茶のペットボトルを買ってから、車に戻り、また運転用のスリッポンに履き替えてから、パーキングエリアを出た。
有料道路の終点を抜け、一般道に入る。もうこの辺りは「田舎」と言っていい土地なのだが、それなりに道はトラックを始めとした業務用の車両で混んでいる。田舎と言っても東京から車で2時間弱で到達する土地であれば、十分首都圏だ。念のためガソリンメーターを確認したが、ガソリンはたっぷりあった。途中にあるガソリンスタンドはやり過ごすことが出来て良かった。このガソリンスタンド、都が普段使うガソリンスタンドと、レギュラーとハイオクのノズルの色が逆で、都は今まで二回間違いそうになり、店員に出てきてもらってしまっている。なので極力このガソリンスタンドには寄りたくなかった。
片側二車線の一般道をしばらく行くと、左のランプウェイが出てくる。それに乗って、海までへのバイパス路になっている有料道路へ入る。道路の途中で注意喚起の看板が言う通り、この有料道路は高速道路ではないのだが、車通りが少なく、緩やかなカーブしかないため、舗装が傷んでることを除けば走りやすい道路だ。ランプウェイを抜けるとすぐにETC利用不可の無人料金所がある。自動券売機に所定の料金を入れて発券、ゲートが開く代物だが、少し寄せが甘いと、都の背丈では、コイン投入口まで普通に座ったままでは届かなくて、一旦ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引き、窓全開にして半身を乗り出さないといけない。後続車がいると本当に迷惑なことこの上なくて、焦ってしまう。
高速ではないのだから、一般道と同じ速度でゆっくり走れば良いのだが、後続車がスピードを出していると煽られるので、煽られない程度にスピードは出すしかない。あまりにも煽りがひどい場合は、トイレと自販機しかないパーキングエリアに逃げる手もあるのだが、このパーキングエリアは、入口からすぐのところと、終点のすぐ手前にしかない。スピード狂の後続車がこないことを祈るのみなのが、この道路の玉に瑕だ。
しかし、ここで猛スピードを出している車は多いことは当局も把握済みのようで、よく白バイが流しているのを見かける。たまに、捕まっている車も見る。対面通行で広い道路ではないのだが、普段の交通量は少ない。スピードを出したい人たちには格好の場所なのかも知れない。
「あれ?まだ終わってないんだー…。」
都が今走っている有料道路は海岸線に対して陸地から垂直に向かって行くような道で、終点で海岸線に平行して走る有料道路に連絡するのだが、昨年から津波対策の嵩上げ工事のため全線で通行止になっていた。今年の春先で完了予定との看板を見たような記憶があるのだが、まだ終わっていないようだ。未だ有人の料金所への道は、ロードジッパーで左へのランプへ車を促すように堰き止められていて、ランプ入り口付近の立て看板には、海岸線沿いの有料道路は工事中のため全線通行止めの旨と、スケジュールらしきものが書かれていた。そんなに看板を見ているわけにもいかず、都はウィンカーを切って車をランプへ促し、一般道へ入った。海岸線の有料道路は海岸がずっと見えるわけではないのだが、多少の上り下りの坂はあるものの、まっすぐな道がずっと続いている。料金所で係員に直接料金を支払ってから、海岸線に沿って走る道へ右折して侵入すると、そのランプの坂上から広がる、遠浅の延々と続く海岸線は、晴れたに日には青空も視界いっぱいに広がって、海に来た、と声に出して喜んでしまいたくなる風景だ。都はそれを見るのをちょっと楽しみにしてたので残念だった。
一般道もまっすぐな道がずっと続く。すぐそこが海岸であることと、高層の建物がほとんどないこととで、空が広い。信号で時々停止しなくてはいけないとは言え、こちらも走っていて気持ちの良い道だ。古い家が多いのだが、晴れ渡った広い空と、残暑の厳しい日差しとがそう思わせるのかも知れないが、澄んだ空気が街全体を覆っているような気がする。それとは正反対のどこか鬱屈したような、猥雑と言っていいような空気が、強い陽射しが作る陰には溜まっているようにも感じる。人通りもなく、車通りも少ない。時折出てくる、風に舞う観光客向けと思われるのぼりが、営業中だと知らせるただ一つの印で、営業中だとわかる食堂や、洒落た店構えのサーフショップ。時折出てくるコンビニエンスストアはなんだか場違いにすら感じる。海があれば何もいらない、そんな言葉が聞こえてきそうだ。この辺りに住んでいる人はどこで食料や日用品を調達しているのだろうか。もっとも都は一番海の近くの道を走っているだけなので、商店街やスーパーなどはもう少し内陸にあるのだろう。それでも歩いていけるような距離ではない気がする。
都が目指していた、夏場は海水浴場として賑わう海岸の入り口交差点まで来た。この交差点の周りだけ、どことなく観光地っぽい店やのぼりなどが多いが、それでももう九月も半ばだから、静かな雰囲気だ。残暑の厳しい日差しに照らされる、賑わいの去った海水浴場というのは、喧騒の鬱陶しさから逃れることの出来たような自由な解放感と、人々から見捨てられたような虚しく廃れた感じが同居していて、趣があると都は思っていた。