07-13

07-13
「はい…。じゃあ、これでおしまいにしていいですかね?」
下山が久しぶりに入ってきて聞いた。
「はい、すみません、こんな時間にわざわざ説明いただいてしまって。ありがとうございました。」
「あ、いえ、こちらこそすみません、こんな時間に電話かけてしまって。」
笠原と下山はお互いに遅い時間に電話会議となってしまったことを詫びた。
「それでは失礼しますー。」
「失礼します。」
自分の挨拶に対する、笠原の挨拶を聞いてから、下山はお菓子ボックスに接続しているPHSをオンフックにした。お菓子ボックスのスピーカーもオフにした。
「間宮さん!ほんっっと、すいませんでした!ありがとうございます!助かりました!」
下山はいつものふざけた大仰な調子で、机に手をついて頭を下げ、謝罪と感謝を述べた。
「いーえ、とんでもないです。…でも、わかってもらえた手応えが全くないんですけど…。」
都は謝罪の必要のないことを伝えてから、正直な感想を述べた。
「なんかまた更問の嵐が来てしまうかもです…。上手く説明できずすみません…。」
都は膝に手をついて頭を下げてしまった。都はなんでも感覚で理解してしまっているところがある。そのためいざ人に自分の理解を説明しようと思うと、自分の理解していることを論理的に整理、再構築することにとても手こずる。だから派遣社員でしかないのかもしれない。そんな風にさえも思った。
「いえいえ、そんなことないですよ!大丈夫です、きちんと伝わりましたよ。私も見方良く知らなかったんで、非常に勉強になりました。ありがとうございました。」
下山はお菓子ボックスからケーブルを外しながら、多少言葉に力を入れて否定していた。下山が単に都を励まそうとして言っているのか、本当に下山にもログの見方が多少なりとも伝わったのかは、都にはわからない。もし都が同じ社員であれば、あそこはこう喋ったほうが良かったかもね、と言った軽い反省会みたいなものがあったかもしれない。しかし派遣社員を残業時間に、当人がアサインされていない業務のために働かせてしまっているという問題があるので、そういう状態の都を早く解放してあげたい、という気遣いが下山にはあるのだろう。
「…だと良いんですけど。」
都はため息混じりにそう言って立ち上がり、ログを印刷した紙とノートを揃えた。
「じゃあ、すみません、ありがとうございました。」
都は軽く会釈をしながら挨拶をして、自席へ戻ることにした。
「いーえ、とんでもない、ほんと、助かりました。ありがとうございました。」
シンクライアント端末からディスプレイケーブルを外し、あとは片付けるだけなので立ち上がっていた下山は、両手を脇に揃え、丁寧にお辞儀をしながら言った。都も両手でノートを抱えて髪の毛で顔が隠れてしまうくらい頭を下げ、もう一度ありがとうございました、と言ってから自席へ歩を進めた。髪を直しながらフリーアクセスの床をガタガタ言わせながら歩いて、ふと周りをちらちら見ると、空席ばかりになっていた。都が電話会議に出ている間に随分と帰ったようだ。空席が多いと、電話会議に参加する都の声も、結構オフィスのあちこちに聞こえていたかもしれない。一生懸命しゃべっていると、普段声の小さい都でも声が大きくなることはわかっていた。恥ずかしいな、と都は実行に移そうとは思わないけれど、隠れたくなった。
自席へ戻って、ノートや印刷した紙を袖机の上に置くと、椅子には座らず、机の上に置きっぱなしだったスマートフォンを拾い上げて、ロックボタンを押し画面を表示させた。時刻は21時近くなっていた。CJ案件のネットワーク図のチェックだけはなんとか終わらせたかった。それが終われば、すでに月曜日にマネージャーやマネージャーグループのメーリングリスト宛に書き送ってある通り、明日は8月の週末工事分の代休を予定通り取ろう。スマートフォンのロックを外して明日の天気予報をチェックする。晴れだ。都は、明日海へ行けるぞ、と思うと嬉しくなって、さっき味わった無力感や疲労感を一瞬忘れることができた。
ネットワーク図のチェックでは、拠点名の綴りを2拠点ほど間違えていたり、既存ネットワーク図の方で、本社の回線帯域を間違えていたりしたが、都にしては珍しくIPアドレスに間違いがなかった。今回のように、既存コンフィグから拾うだけであれば、基本コピー・アンド・ペーストでやるのだから、間違いがあまりないのが普通だ。しかし、どこかでコピー・アンド・ペーストを面倒臭がって、手書きでやってしまう箇所があると、案の定その箇所だけ間違っている。BGPの広告指定コマンドから、LANネットワークを書き出すのに、サブネットマスクからプレフィックス長に書き換える際、計算を間違えていたりする。そういった間違いは都にとってはいつものことなのだが、珍しく今回は間違えていない。逆に都はなんか見落としていそうだと心配になった。
印刷したものから発見した間違いをファイル上で全て修正したので、それを再度印刷してチェックをし、問題がなければ今日はおしまいにしようと思った。環境に優しく、であれば印刷はなるべくしない方が良い。ディスプレイの上だけで済むものは済ました方が良いのは確かだ。しかしそれだからと言って間違いが許されるのかといえばそういうわけでもない。ディスプレイで見落としがちな間違いは、紙媒体に落とすとほぼ必ず発見できる。この利点を無視するわけにはいかない。やはり液晶のドット表示は、印刷物のきちんと繋がった線の表示とは異なるのだろう。まるで別のものを見ている気がする。それは言い過ぎではないと都は思っていた。
人も減って来たので、今度は裸足のままプリンターまで行くことにした。最初に印刷したものは、値が合っている部分にはチェックを入れたり、間違えた箇所には訂正すべき値をメモのように書き込んでしまっているので、新しく印刷したものとの混同を避けるためにも、プリンターの隣にある、機密性の高い書類を溶解処理へと回すための鉄製の集積箱へ放り込む。基本、何か仕事で使った印刷物などの書類、メモさえも廃棄する際はここへ入れないといけない。メモは馬鹿にできない。たまたま席を外している人の電話を取った時の取次メモなどは、所属名前電話番号が記載されていて、個人をあっさり特定出来てしまう情報だ。
都は自分の部屋がフローリングなこともあり、フリーアクセスの床に敷かれたカーペットを裸足で歩くのは新鮮な感触だ。ちょっとくすぐったい気もするし、カーペットって結構気持ち良いよね、と思ったり。もっとも本来土足で歩くオフィスなのだから、裸足で歩くのは汚い、という問題があるのだがそれは考えない。そんなこと言ったら、裸足で砂浜を歩くことなんかもっとできないぞ、と全く無関係ないことを持ち出して自分の行動を擁護しようとしてみたりする。
印刷し直したネットワーク図を俯瞰的に眺めながら席へ戻る。我ながら綺麗に描けたなと思ってみる。既にプリンターから都の席までの導線上にある島や席の人はみんな帰ってしまっているので、間違えたところを修正した箇所が、きちんと直っているか確認しつつ、都は裸足でカーペットの感触を楽しむようにゆっくりと歩いた。職場というのは公の場だし、守っていない人もいるような比較的緩いドレスコードもある。そもそもお金を稼がなきゃいけないから、仕事をしなくてはならない。だから、たとえその場が窮屈で、居心地が悪かろうと、そこで過ごさなくてはならない。肩や背中だけじゃなくて、脳も心も凝ってしまいそうな場所で、裸足になって歩いてみるのは、その中でのささやかな抵抗と、そこからのわずかな逸脱で、小さな開放感とそれに伴う浅い快感が味わえる気がする。
さっきの電話会議はあまり良い後味は残らなかった。都の説明をわかってもらえたのか、わかってもらえなかったのかもはっきりしないし、笠原というSO部の社員は、都の挨拶に対して返しもしなかった。最後も、下山には礼を言ってはいたが、都には何もなかった。下山の部署で使われている派遣社員なのだから、下山とだけ話をすれば良い、ということなのだろうか。派遣社員は現代の奴隷、と行き過ぎた論調を時々インターネット上で見かけるが、本当にそうなのかもしれない。都は吐き出しようのない苦味が口の中に広がるような不快さを感じた。
ネットワーク図を見ていたつもりが考え事に没頭してしまって、ますます歩くのが遅くなってしまい、止まりそうになったところで自分を取り戻し、とりあえず自席へ戻ろうと顔を上げると、前の方から都に用事がありそうに近づいてくる人物がいることに、この時点でやっと気がついた。都はちょっとびっくりした。都が印刷物の確認に没頭しているように見えたので、声をかけるタイミングを計れなかったのかもしれない。
「あ…。あの、間宮さん、すみません。ちょっと良いでしょうか。」
おっとりした、聞きようによってはのっそりとした喋り方で声をかけられた。背がとても高いが、細過ぎるくらいなので一見頼りないように見えるけれど、彼もPMとしてたくさんの案件を抱え、捌いている立派な男子だ。まだ二十代後半のはず。海外の大学で英語の教員になるための学科を卒業していると聞いていた。このグローバルネットワークを扱う部署には、海外で生活した経験のある派遣社員はとても多い。海外へ旅行ですら行ったことがないのは、都が知っている限り、社員派遣社員含めて都だけだ。
「はい。あら、谷山くん。どうしたの?」
オフィス内を裸足でウロウロしているところを同僚に見つかるのはなんとなく恥ずかしい。しかしそれとは逆に、どうだ、自然児だ、となんだかふざけて自慢したくなりたくなるいたずら心もふつふつとする。社会規範に合わせて、抑圧している本当の自分を解放したい、公衆の面前で露わにしたい、という倒錯的な欲望が都にもあるのだろうが。
「あの…。なんで裸足なんですか…。」
彼はぎこちない笑いを浮かべながら聞いて来た。オフィスの土足で歩くはずのフロアで、裸足で歩いていることを、正常に不自然と理解し、それを可笑しなことだと思い、聞いてきたのだろう。彼とは特段親しいわけでもなく、席も離れているし、またマネージャーグループも違うため、業務を一緒にすることもないので、ほぼ話す機会はない。しかし、彼が何か技術的な問題や困難にぶつかった時、彼のグループ内で技術的に頼る人が不在だと、都を頼ってくることがあった。谷山は都と同じ派遣元だったため、この職場へ彼が入ってきた時、少し挨拶をしたり、ものすごい基本的なこの現場のルールや、派遣元の勤怠の締め方などを教えたりした縁もあった。
つまり、この21時を回った時間帯で、都が声をかけられたのだから、それは彼が何らかのトラブルにぶつかっている、ということを意味している。
「あー、これー?もー夜遅いから自然に帰りたいの。」
都は片足をちょっとだけあげて、ふざけた調子で返した。
「え…。ちょっと意味わからないんですけど…。」
谷山は若干引き気味に笑って、理解できないことをわざわざ言ってきた。こういう時、笑って適当に誤魔化すとかすれば良いのに、彼は一言多い。
「そんなことはどーでも良いから、どーしたの!」
都は素の自分を親しくもない男に見せてしまって、それを理解もされず、気まずく恥ずかしくなったので、誤魔化そうとして、腕をバタバタさせながら、用事はなんだと、谷山に弱腰で詰め寄った。