07-11

2022-01-20

07-11

 都は自分のスマートフォンのカメラで、ノートに書いたトポロジー図を撮り、画像を会社の自分のメールアドレスに送った。件名も地の文も何もつけずに送ったので、下山に転送する時は、件名に図です、と書き、本文には挨拶などはなしで、この図とログを使いましょう、とだけ書いて送信した。都は自分の手元用に、LSAタイプ1のログを印刷しておくことにした。そんなに長いログではないので、2アップ両面印刷の1枚で済むだろう。
 都がノートと印刷したログとを持ってシドニーへ着いた時には、下山はお菓子ボックスに自分のPHSを繋いでいた。繋ぎ終わると慌ただしく、ホワイトボードにシンクライアント端末の画面を映写するため、会議卓に据置のプロジェクタの電源を入れたり、ディスプレイケーブルでシンクライアント端末とプロジェクタを繋いだりしている。
 「ほんとすみませんねえ、こんな時間なのに。苦情は末谷課長までお願いします。」
 末谷課長は都のマネージャーでもあるが、下山も末谷課長の配下だった。都は課長のとばっちり具合が可笑しくて笑ってしまった。
 下山はプロジェクターの位置を少し前後に動かして、ホワイトボードに映写された像を調整する。
 「岸谷が送ったログと、さっきの図の写真があれば良いですかね。」
 そう言いながら下山は、岸谷がSO部の人に送ったメールに添付されたログと、さっき都が下山に送った写真とを開いて、それらが画面いっぱいに並列で表示されるようにした。都はその二つがあれば良い旨答えた。
 「じゃ、ちょっと電話しますね。」
 お菓子ボックスの電源はすでに入っていて、下山がPHSをオフフックにすると、ダイヤルトーンがお菓子ボックスから聞こえてきた。都は少し緊張してきた。岸谷が悪く言うので、電話の相手にあまり良い印象を持てないでいたし、都自身も、この問題について何度も何度も聞いてくるというので、しつこいな、あとは自分で調べれば良いじゃない、と思っていることもあり、愛想の良い応答ができなさそうな気がしていた。どんな人なのだろうか。しかしその前に、都はその人の名前すら知らなかった。岸谷が受け取ったメールの送信者情報を確認した時に名前は見たのだが、覚えていない。
 「はい、笠原です。」
 お菓子ボックスから電話を取った向こうの声が聞こえてきた。愛想が悪いわけでもなく、良いわけでもない、男性社会人独特の中庸な電話での応答だ。かかってきた番号で、社内だということはわかったはずなので、それほど外向きな反応はしていないのかもしれない。どんな人なのかあまり想像がつかない、このまま電話を切ってしまえば全く印象に残らない声と言えた。それはこの人が個性がないということではなくて、社会人として経験を積み、礼節を身に付けて、社会人として正しいとされる、こういう没個性な、業務上の電話応対の発声やしゃべり方になったのだろう。
 「お疲れさまです、GDの下山です。」
 下山はお菓子ボックスを見やりながら挨拶をした。GDとは都たちの部署の略称で、グローバル・デリバリーの頭字語だ。
 「あー。お疲れさまですー。」
 くだけた調子とまではいかないが、よく知っている社内の人間から掛かってきた、ということがわかった時のような反応を、電話の向こうはしていた。下山とは古い付き合いなのかもしれない。今話しても大丈夫かというやりとりがあった後、下山は本題に入った。
 「あのー、例のA社さんのOSPFの件、ログの解析をしてくれたSEさんが未だいらっしゃって、ちょっと軽く話してもらえるということなので、今これスピーカーで話しているんですけど、一緒に出てもらっていますー。」
 「ああ、はい。」
 下山の電話をかけた理由の説明に、ただ事情を了解しただけのような返事をした。そこには何の感情も読み取れなかった。少なくともありがたいとは思われてはいないようだ。頼んできたのはこいつじゃなかったんだっけ、と都は少し訝しく思った。都はこのタイミングで名乗って挨拶しよう思っていたが、面倒臭くなって止めてしまった。
 「えーとですね、で、ついさっき私が送った写真って見られますかね?」
 下山は、SO部の笠原、という電話の相手に言った。都が名乗らなかったのもあるだろうが、下山は自身で話を進められるところまで進めるつもりのようだ。
 「あー…。何時頃のメールですかね?」
 笠原は聞いてきた。忙しい人はメールの数が膨大なので、さっきのメール、と言われても見つけられないことは多い。SO部は都たちのオフィスとは別ビルのオフィスなのだが、非常に多忙な部署で、20時を過ぎたくらいでは、まだオフィス内は打ち合わせや電話応対の声でざわざわしたままだと言う。笠原も受信するメールの量は半端なく多く、下山のメールをすぐには見つけられないと言うことなのだろう。
 「あ、すいません…。えーとですね、タイムスタンプが20時26分の私からのメールですね。」
 下山は相手の事情を考えて、最初からメールのタイムスタンプを伝えなかったことを詫びた。
 「あー、ありました。添付の画像ファイルですかね?」
 笠原はメールを見つけたらしかった。
 「あ、はい、そうです。それ開いてもらえますかね。」
 下山は多くの場合、他部署の人には低姿勢で対応している。それが彼の流儀のようなところはあった。都は下山と同じ部署で仕事をしているし、付き合いも長い。そのせいで余計に下山の味方のような態度になってしまうところもあるが、笠原の言い方は横柄に思えて嫌な気持ちがした。
 「はい、開きました。」
 ファイルを開いたと言う事実だけを笠原は言った。その画像を見た感想は何もなかった。
 「で、ですね、手書きのネットワーク図の写真が見られると思うんですけれど、それが今日岸谷から送ったログから描ける、LAN側のネットワーク図なんですね。」
 下山は説明した。
 「あ、はい。…あー…。おー、へー、そうなんですね。」
 最初、だからどうした、と言うくらいの冷たさだと、都が印象を受けるような調子で返事をしていたが、画像に映るものが何なのかすぐに把握できなかっただけのようだ。都の手書きの図が見づらかったのかもしれないし、都の汚い字が読みづらかったのかもしれない。
 「で、OSPFってルート交換じゃなくて、LSA交換じゃないですか。そのLSAからトポロジー情報持つって言われている通り、LSA情報読み解いていくと、同じエリア内のOSPF回っているルーター同士がどう繋がっているかを、こうやって図に落とせる、って言うことらしいんですね。」
 下山の言葉の切れ目切れ目で、笠原は相槌を打っていた。
 「図の一番左端のルーターがうちの客宅ルーターで、一番右端が例のルートを持っているルーターになります。」
 下山はあってますよね、と言う意味で都に視線を向けたので、都は大きく頷いた。
 「例のルートについてなんですけど、ギガインターフェイスからもそのルートをもらっている、と言うよりはですね、うちの客宅ルーターはそのルートまでたどり着くのに、ギガインターフェイスからでもシリアルインターフェイスからでも行ける、と言うことを知っている、と言う感じになるんですね。で、どちらのインターフェイスからも、そこへたどり着くまでに通るルーターの出口インターフェイスのコストをそれぞれ足していって、合計コストの低いインターフェイスの方をルーティングテーブルに載せている、と言う動きになっています。」
図に各インターフェイスにコストが書いてあるが、それもログから読み取れる、と言うことを下山は付け足して喋っていた。笠原は下山の話の切れ目切れ目で相槌を打っていたものの、少し納得出来ていない調子を伴うようになっていた。
 「これ、そもそも例のルートがどうしてこの図にあるような位置にあるってわかるんでしたっけ?」
 笠原が聞いてきた。
 「えー、それはですね、LSAを読み解いてトポロジーを図に落とすと、その位置になる、って言うことなんですが…。」
 これは既に下山が説明済みのことだ。同じことを繰り返しているだけだな、と思ったらしく下山は言葉尻がきちんと閉じられなかった。一度話したことを再度聞かれる場合、相手にきちんと伝わっていないのだから、別の言葉や別の角度から説明し直すべきだ。決して相手を責めることをしない下山だから、そう考えたのだろう。しかし次の手が思いつかなかったようだ。
 「OSPFがLSA交換だと言うのも、OSPFが回っているルーター同士のトポロジーを持つと言うのも、コストの軽い方がベストパス、と言うのもわかります。わかりますが、じゃあどうして、いただいたログを見れば、ギガインターフェイスからもルートをもらっている、まあ、そう言う言い方が良くないのであれば、ギガインターフェイスからもそのルートへたどり着けることを客宅ルーターは知っている、けれど、シリアルインターフェイスの方をベストパスとして採用している、と言う判断が出来るのかがよくわからないんですよ。」
 それは既に下山は説明していることだと都は思った。笠原が今ひとつ飲み込めていないだけなのだろうか。怒ったり熱くなったりしている調子はなく、どちらかと言えば冷静な口調だが、それが返って、都には嫌味に聞こえたし、こちらを責め立てるようにも響く。
 「えーっと、それは送った図の写真を見て欲しいんですけれど、そのネットワーク図で、客宅ルーターから、例のルートを持っているルーターまでの経路を辿って…。」
 「ああ、じゃあそうであれば、どうしていただいたログから、こう言うネットワーク図が出来るのかがわからないですね。」
 下山が再度ネットワーク図で説明しようとしたのを遮って、笠原は発言してきた。少し早口になっていて、苛つきが見え隠れする。下山はお菓子ボックスのミュートボタンを押した。これでこちらの声は向こうには聞こえなくなる。
 「え、これどんな嫌がらせですか?」
 下山が口を開くより先に都が言った。都が悪し様に言うので、下山は笑ってしまっていた。
 「どーしますかねえ。これ。」
 下山は笑いながら言った。
 「ちょっとログの見方をあたし喋ってみます?それで納得してくれるかどうか、なんかびみょーな気がしてますけど。」
 都は、びみょー、と間延びして言った。下山は同意の意味で笑っていた。
 「じゃあ、申し訳ないですけど、ちょっとお願いしていいですか?」
 下山は都に聞いた。
 「はい。」
 都は愛想良く返事した。だが、笠原に対してもこの愛想を維持出来る自信はなかった。