07-10

07-10
プレゼンテーションソフトでネットワーク図の清書が一応終わったので、印刷してチェックしようと都は思った。作業にだいぶ集中してしまっていたらしく、プレゼンテーションソフトの印刷進行状況を示す、バーの進捗が100パーセントになったところで、ちょうどのそのバーの下にあるディスプレイの時計を見ると、すでに20時を回っていた。下絵を描き出したあたりから、パンプスを脱いで仕事をしていた。人がそれほどいなければ裸足でプリンターまで出力を取りに行くのだが、今日はまだ残業している人がそれなりにいるので、パンプスを履いてからプリンターまで行った。
打ち出されたネットワーク図を少し目から離して、俯瞰的に見る。図として全体的にバランスが良いか、言い切ってしまえば、見栄えが良いか、それを最初にチェックする。図をファイルで描いている最中からそれは気にはしている。しかし、ファイルで見ていると、IPアドレスなどの細部に注意を払うため、全体像が朧げになるせいなのかもしれないが、どうもあまり美しくなってないんじゃないと残念な気持ちになってしまう時がある。それでも、ネットワーク図は、ネットワーク全体としてのトポロジーや構成といったものを把握できるようにするためのものなので、見た目の美しさなどに囚われてはいけない、と逃げ口上のように考えたりする。
実際に打ち出して、紙媒体として見てみると、まっすぐな線や、きれない円や楕円、バランスよく入ったLAN側のサブネット情報などが、ディスプレイの上でファイルとして見たものよりもはるかに綺麗に見えて、それだけで上手くいったなと思ってしまう。ディスプレイで見ている時より、綺麗に、まとまって見えるのは、液晶のドットによるデジタルな描画から、切れ目のない線による描画に変わるので、その辺りで視覚として受け取る快感に違いがあるからなのだろう。
打ち出したネットワーク図がきちんと既存コンフィグと一致しているかどうか確認していると、下山が声をかけてきた。都がちょうど日本拠点名のローマ字の綴りを間違えているのを発見して、わちゃ、と思ったところだった。
「間宮さん、すみません、こんな時間に。ちょっとですね、わたくしめに5分ほどお時間いただいてもよろしいでしょうか。」
下山は都に声をかける時いつもそうするように、ちょっとふざけた調子のひどい低姿勢だ。
「どーしましたかぁ?」
都も若干ふざけ気味に、大仰な感じで聞き返した。
「今日、日中に岸谷が受けてた問い合わせありますよね。」
「あー。OSPFのルートのもらい方が気に入らない件ですか?」
下山の確認に都は冗談まじりで悪し様に答えた。下山は笑っていた。
「SO部からですね、どこをどう見たらギガのインターフェイスからももらっていることになるのか説明してほしい、と聞かれてまして。」
この話が岸谷から来ないということは、岸谷はもう帰ったのかもしれない。それにしてもしつこいな、と都は思った。このルーターの設計が今の設計になった経緯はわからないが、どちらにしろMPLSのエッジになる客宅ルーターでどうにかなる問題ではないのに。岸谷が言うように、SO部の人は本当に岸谷という新入社員が気に入らなくて、それで難癖をつけているだけなんじゃないかと都は訝しく思った。
「えー。もう自分で調べなさいよ、で良くないですか?後はLSAの見方自分で勉強してください、で。」
都は呆れたような笑みを浮かべながら思わず言った。
「まーそうなんですよねー。」
下山は困ったような笑みを浮かべている。SO部などの他部署が絡む案件では、技術的なサポートを求められることは多い。LAN機器をSO部が提供していて、そのコンフィグのチェックやトラブルシューティングのサポート。MPLSにおけるBGPについての、社内資料に載っているような事柄についての素朴な質問から、突っ込んだ技術的な解説依頼まで。PMによっては、調べがつくものは自分で調べるよう促したり、彼ら自身の責任区分範囲のものはSO部内で閉じてやってくれるようにと、そういう依頼を断ったりもする。けれど多くの場合は、結局プロジェクトとして完遂させるためには、SO部と協力してやっていかなければならないのだから、それらに対応してしまうことが多い。
例えば、SO部がLANにスイッチなどを提供していて、その機器起因でトラブルになった場合、責任区分範囲外だからと言って手を出さず待っているのは、ルールとしては正しいのかもしれない。任せておいて解決すればそれで問題はない。しかしSO部だけで解決できない場合、長い無益な待機時間を生むだけだし、お客の満足度も下がる。場合によっては切り戻しが発生して、再工事をしなければいけなくなったり、お客への謝罪訪問につきあわされた上、その後の特別体制という名の手間のかかるプロジェクトマネージメントや、細かい資料作りをしなくてはならなくなることもある。それらを避けるためにも、事前にコンフィグのチェックなどを頼まれてしまえば、受けてしまったほうが良い。もし間違いがなかったとしても、配下の機器のコンフィグを把握できているのは、トラブル時に見える範囲が広がることになり、非常に有益だ。事前にSO部の機器の設計やコンフィグのレビュー依頼がある案件の場合、都は可能であればリモートアクセスの権限までもらってしまう。そうすれば、切り替え工事の時にトラブった場合、その機器までログインして状況を確認・把握できるからだ。
岸谷とSO部の担当者がそうであるように、他部署が絡む案件では、部署間の関係は少し対決姿勢になってしまうことは往々にしてある。都たちの部署の責任区分範囲は、客宅ルーターのLANインターフェイスまでと、とてもはっきりしているのだが、この都たちの部署で構築したネットワークを通して、企業の土地の離れたオフィスや工場同士が通信できるようになる。SO部がLAN配下を見ていると言っても、離れ小島を面倒見るだけ、とはいかなくて、ある土地のLANと、本社や別拠点のLANとの通信がきちんと成り立って、初めてプロジェクト完遂となる。彼らにしてみれば、離れた土地間を渡す橋のようなMPLSがきちんと納期を守り、適切に設計されて引き渡されるのか注視しなくてはならないのは致し方ないのだ。デリバリー上の遅れやトラブルなどで、都たちの部署がきつく当たられることは少なくない。責任区分範囲をあまり強く主張してしまうと、グローバルでは起こりがちなトラブルの時に、ただ責任を厳しく追及されるだけで、関係は悪化してしまう。お互いに悪い印象だけが残る。
こう言った衝突を緩和するためにも、SO部がマネージするLAN配下の機器の設計や、都たちの責任区分範囲を超えた、全体を包括するような設計の相談については、PMから打診があれば、都は引き受けることにしていた。日本国内に閉じていては到底起こり得ないようなデリバリー上のトラブルは、グローバルでは本当に多く、それは日本ではトラブルとして認識されても、国が変わればごく当たり前のことでしかないこともある。それに対するお客からのクレーム、営業からのクレーム、全体統括PMからのクレーム。それらの対処にPMが忙殺されることはしょっちゅうだ。こういった設計相談に乗ることで、そういったことが少しでも緩和できれば良いし、また、切り替え工事時に、都たちの責任区分範囲を超えたところから俯瞰した方がわかりやすいこともあり、一種の「何でも屋」になっているSO部の協力を得られると助かるのだ。お互いが困った時に、お互いに助け合えるような雰囲気の醸成は大事だと都は思っていた。しかし、頼みごとを引き受け過ぎても、結局稼働だけが増えるので、こう言ったバランスはPMに取ってもらわないといけなかった。もし、都が直接受けてしまうと、何でもかんでも断れずに、潰れるまで引き受けてしまうので、都にPMは無理だった。
「どこまで説明します?本当に、スプレッドシートにログ貼って、貼った列の隣に説明書いたものを作ります?」
この案件のプロジェクトが、SO部とどう言う体制でやっているのか都は知らないし、岸谷に聞いてきたSO部の担当者があまり彼女と仲良くないこと以外は、どういう温度感の関係なのかもわからない。しかし、下山の言い方からして、無下には断れないと言うことなのだろうし、あまり突っぱねるのも今後のプロジェクト運営にとって遺恨が残りそうだと言うことなのだろう。
「いや、さすがにログ全部の解説は良いと思うんですよ。ここがこうだから、こうなんです、と端的で良いと思うんですけど。」
下山はそう言うが、客宅ルーターから見て3ホップ先にあるネットワークへのコストを説明しようと思うと、やはり全部説明するしかないんじゃないかと都は思った。
「ま、無理ですよねー。」
下山は内容を理解しているので、都と同じ思いに至ったらしく、結局そうまとめてしまった。都と下山は笑ってしまった。
「あのLSAのログを読み解くと、こう言う図が出来上がるんですが…。」
都はそう言いながら、開いていたノートをぱらぱらとめくり、岸谷とログを読み解いて描いた、客宅ルーターから見たOSPFルーターのトポロジー図を下山に見せた。
「おー。これまじっすか。こんな図が書けてしまうんですねえ。」
下山は感心しながら笑っていた。OSPFはLSAからトポロジー情報を持つ、と言うことは知っていても、実際にトポロジーを描き起こしたりしたことはない人の方が多い。なので、描くと感心されることは多かった。
「これの写真撮って送りますか?写真だけじゃなんなんで、やっぱりログの説明資料作った方が良いんですかねー。」
都は、どうしてこう言う図になるんだと聞かれてしまうような気がした。
「つか、お客さんに聞けば良いだけじゃないですか?LANにあるルート、なんかシリアルインターフェイスからの方が軽くなってんですけどー、どーしてー?みたいに。」
都はログの説明資料を作った方が早い気もしたが、それだとやり過ぎになってしまい、今後岸谷に余計な問い合わせや要求が増えてしまうかもと危惧した。LANはお客さんの責任区分範囲だと言うのを思い出して、やはりお客さんに事実だけ伝えれば良いだろうと思い直した。しかし、そもそもお客さんがこのベストパス選択を問題にしているのかどうかも都は知らない。
「ま、そーなんですよ、本当はそーなんですよ。ただ、ちゃんとお客さんのフロントとして、ちゃんと知っておきたい、と言うことだと思うんですよねー。」
少し声をひっくり返しながら、下山は笑って都に同意した。
「それって下山さんにメールで問い合わせきてるんですか?」
都は気になって聞いた。
「いや、今さっき電話かかってきて、ちょっと説明してもらえないかと、言われまして。」
下山は申し訳なさそうに言った。都は、そこで自分で調べてくださいって言っちゃってくださいよー、と言いそうになったが、止めた。無下にできない事情があるのだろう。
「やっぱり簡単には難しいですよね、わかりました、自分で調べろ、って言いますよ。」
下山は都の気の進まなさに反発して方針を変えようとしているのではない。簡易に説明できる方法があれば、それを伝えて終わりに出来る、と思っていたのだが、それは難しいと判断したようだ。
「写真送って電話で話しましょうか?」
都は電話で人と話すのはあまり得意ではない。しかしこのまま下山に協力せずに終わるのも申し訳ないと思ったし、結果的に岸谷を助けることになれば、尚良いとも思った。書くより喋って説明した方が早いかも、とも考えた。
「えー。いやー、そんなことをお願いしてしまうのは申し訳ないんですがー…。」
下山は少し大げさに申し訳なさそうにした。
「お願いしてしまって良いですかね?」
しかし結局いつもの大仰な感じで、都は頼まれた。
「はい。じゃあ、この図の写真撮って、下山さんにメールしますね。それをSO部の人に送ってもらえますか?」
都はノートを開きっぱなしにして、写真が取りやすようにするため、綴じ目を繰り返し押し伸ばしながら言った。
「ほんっっっとすいません!じゃあ、私はお菓子ボックス準備します!」
お菓子ボックス、とは電話会議用マイク・スピーカーユニットのことで、社内で使うPHSや携帯などを繋いで使うことができる。誰かが、その形がお菓子ボックスに似ている、と言い出して、都たちの部署ではこの名前で浸透していた。
「会議卓でやります?それとも下山さんの席でやります?」
お菓子ボックスが仕舞われているロッカーの鍵を取るため、キーボックスへ向かう下山に都は追加で質問した。
「あ、会議卓がいいかもですね。シドニーでやりましょう。」
このオフィスの会議卓にはそれぞれ世界の都市名がつけられている。シドニーという名前の会議卓は仕切り板がなく、集まりやすく使い勝手が良いため、ちょっとした打ち合わせによく使われるのだが、日勤帯にここで電話会議をやられてしまうと周りの島の人はうるさくて仕方がない。しかし、もうすでに20時半近くになっている。シドニーの周りの島の人がみんな帰ってしまっているのは、都の席からも立ち上がればだいたい確認できた。
下山はもしかしたら最初からSO部の人に電話するから軽く説明してもらえないか、と頼みたかったのかもしれない。これが同僚の社員であれば、ちょっと電話会議するから軽く喋ってくれよ、で済んだだろう。アサインされていないプロジェクトの、オーダーも出ていないような案件に対する、事前問い合わせに対しての回答・説明のために、派遣社員を残業時間の電話会議に出席させるのは、本来の業務以外の仕事を強要していることになってしまう、ということなのだろう。だから気を使ってくれて、出来るだけ都が関わらなくて良い方向に持って行こうとしてくれていたのかもしれない。自分という存在が、下山に不便な思いをさせてしまっている。申し訳ないのはこっちの方だと、都は思った。