07-01

2022-01-20

07-01

 岸谷と一緒にやることになった新規案件はお客の名前を略してCJ案件と呼ぶことになった。そのCJ案件の既存ルーターのコンフィグがお客から営業に来て、下山と岸谷に共有されたとのことだった。プロジェクトフォルダに子フォルダを作って上げておくのでまずは中身を見てもらえないか、フォルダのリンクは後で岸谷から送らせる、と下山から言われた。結構すぐ来たなと思った。丸ごとコンフィグを渡してくれるわけはなくて、IPやルーティングに関する部分だけ抜粋されたものだろう。構築対象の拠点だけで良いのだが、構築対象外の日本拠点まであると全部見切るのは大変かもしれない。ただ、あればあったで既存拠点のLANにアサインされているサブネットも把握できるだろうから、無駄にはならないが、面倒は増える。
 「下山さんたちってお客さんとこ一回行くって言ってましたよね。それって日にち決まったんですか?」
 都は自席まで話しかけに来てくれた下山を見上げて聞いた。
 「いや、まだですね。昨日オーダーがオフショアセンターに届いたので、一応海外の全拠点にデマケの確認メールが飛んで、その反応を見てから行く感じですかね。でもまあ来週には行くと思います。」
 デマケーションの確認メール、と言うのは客宅側の回線終端場所確認メールのことで、これに現地お客担当者から返事がもらえないと回線キャリアにオーダーを出すことは出来ない。回線を客宅の何処に終端するのか、具体的には客宅が入っているビルの何階のどの部屋、どのラックで終端するのかをヒアリングするものになる。日本のお客が現地のデマケーションをきちんと把握していて細かい情報を営業に提出済みの場合は、この情報をそのまま使って現地キャリアへオーダーが出る。その場合このデマケーション確認を省くことが出来る。この情報をもとに回線キャリアは現地調査の必要の有無や、回線敷設のための経路設計、キャリア設備のキャパシティ確認など、回線敷設のための作業に取り掛かることになる。
 時折このデマケーション確認のメールがトラブルになることがある。回線の敷設を発注したのだから、敷設場所を確認するのは当たり前なことなのだが、現地のお客が日本のお客からなんの説明も聞いてない、あるいは現地で回線敷設について知っているお客がオーダー上の現地お客担当者になっておらず、その人が把握していない。そのため何かの売り込みの営業か迷惑メールかと勘違いされ、時には日本のお客にクレームが上がり、それがそのまま日本のお客からクレームになったりする。プロバイダ側にしてみれば理不尽なことこの上ない。
 このデマケーション確認メールから、回線キャリアの現地調査訪問までは一悶着起こることは多かった。現地お客が聞いていない、と言うものから始まって、日本の通信会社に発注したのに、全く名前も知らない現地の回線キャリアから突然連絡が来た、突然事前連絡なしに現地調査訪問にやって来たから追い返した、と言うものまで。海外で事業を展開している企業が基本的にはこう言うグローバルMPLSを買うので、海外現地と日本では商習慣、文化の違いはよくよく知っているはずなのだが、そう言う文化の違いから生まれる、日本の文化からすると「失礼」にあたる対応について強く不満を言ってくるお客は多い。またMPLSサービスについてのお客自身の責任範囲について理解が足らず、思っていたのと違うというクレームも多い。これは日本独特なのかもしれないが、買う方はそこは売る方がやってくれるのだろう、売る方もそこは買う方は理解しているだろう、と言う根拠のない互いへの期待による細かい説明や質疑の欠落からくるものだ。構築に入ってからこう言うトラブルに巻き込まれるのは構築担当にとっては余計な負担以外のなにものでもないので、事前にこう言う問題が起こるから受注時にきちんと説明するよう啓蒙活動が社内で行われているようだ。しかし営業サイドとしても最初からあまりマイナス情報は出したくないと言うのもあり、構築担当の希望通り浸透しているとは言い難かった。
 「じゃあ、来週にはヒアリングシートあったほうが良さそうですね。」
 都は下山たちのお客訪問時にヒアリングシートがあれば、その場で説明してくると言っていたのを覚えていた。
 「そーですねー、でも既存のコンフィグから起こすのって結構大変じゃないっすか?」
 下山は気を遣って聞いてきた。
 「内容にもよりますけど、でも今日まだ火曜日なんで。」
 都は机の上の卓上カレンダーを手にとって今日を指差しながら言った。拠点数から言って問題ないだろうと思っていた。コンフィグが開けてみたら実は複雑で読み解くのに時間がかかった、としても金曜の夜までにはなんとかなるだろう。
 「すいません、じゃあ無理せずでお願いします。あ、あと出来上がったら一度岸谷入れてレビューお願いして良いですか。」
 お客を訪問してヒアリングシートについて説明を岸谷にさせるつもりなので、今回起こしたヒアリングシートでどう言った点をお客に聞いたほうが良いのかなど注意点についても教えてもらえれば、とのことだった。
 「了解しました。じゃあ出来上がったらお知らせしますね。」
 「いつもほんとすいません!よろしくお願いします!」
 下山はふざけた調子で大げさに言っていた。都もとんでもないですよ、とふざけた調子で大仰に返した。これが社員だったらたとえ相手が忙しくても、悪いんだけど金曜までにやっておいて、の一言で済んだろう。
 CJ案件の共有フォルダの場所は以前に教わっていたので、しばらくしてからそこへ入ってみた。既存コンフィグという名がついたフォルダが存在していて開いてみるとおそらくは拠点名をそのままファイル名にしたであろうテキストファイルがずらりと入っていた。海外拠点はカタカナ表記だが、今回の案件で構築予定の拠点と合致するものが全てあった。日本拠点については本社という名があるファイルが二つあり、一つには括弧書きでVPNと書かれていて、もう一つは括弧の中にMPLSとあった。その他に十数拠点の日本拠点があるが、これらは簡易サービスで接続するものなので都たちのプロジェクトには含まれていない。しかし念のため見ておいたほうが良さそうだ。そこそこあるね、と都は独り言を口走りそうになった。まずはネットワーク図を起こさないといけない。現状とマイグレーション完了後と両方作っておく必要がある。
 ネットワーク図を描く、というのはとても大事だ。都は既存のネットワークの構成変更によるルーティングを考える時や、新規のネットワークのヒアリング資料を作る時、あるいは検証作業をするので検証環境用のネットワークをどうするか考える時など、まずネットワーク図から描くことにしていた。最初からファイルで作成することもあれば、一旦ノートに描き考えをまとめてからファイルを作成することもある。簡単な検証であれば、ノートに図を起こしておしまいにしてしまうことが多い。
 都が使っているノートはA4の無地のノートでネットワーク図が描きやすい。自分のノートを振り返ると、雲からたくさん線が延びてルーターやスイッチを表す丸や四角が線の先に繋がっているような絵ばかり描いてある。線の近くにIPみたいな数字が書いてあったり、ルーターのWANからLANへ曲線の矢印でルーティングプロトコル間の再配送を示していたり、トラフィックフローを書いたのだろう、その上にぐちゃぐちゃと線が重ね書きされていたりと、他人が見たら落書き帳にしか見えないだろうノートになっている。
 今回は既存コンフィグを見ながら、一旦ノートに既存のネットワーク図をざっと書いてから、それをプレゼンテーションファイルできちんと起こそうと思った。営業がくれた資料にあった簡易なネットワーク図が理解の参考になるはずなのでそれをまずは印刷しておこうかと思った。その営業のネットワーク図をそのまま使ってしまった方が効率が良いとも言えるのだが、営業のネットワーク図だと、IP情報など書き入れるのには狭いし、都がネットワーク図で表現したいことも出来なさそうだ。単に都のこだわりみたいなものが表現できないだけ、とも言える。そういうこだわりが稼働を増やしているのだから、捨てていった方が良いのだけれど、ちょっとした「いいや」という気持ちが集中力の欠如に結びついて初期の時に見逃したことが構築最後になってとんでもない落とし穴になることはある。なので最初のネットワーク図は自分できちんと理解するためにも多くの場合は一から描くことにしていた。新規案件であればなおさらだ。
 都が営業資料のフォルダを開こうとしたら声を掛けられた。
 「間宮さん、お疲れさまです。今話しかけて大丈夫ですか?」
 本人は大きい声を出しているつもりはないだろうが、はっきりした通る声で聞き逃しようがない。岸谷だった。
 「お疲れさまー。うん、大丈夫だよ。」
 都は振り返って答えた。すっかり知り合いのような軽い返事をしてしまった。ルーズウェーブのセミロング、大きな瞳と長いまつげ。白のシャツブラウスと茶系のスカートは清潔感があって良い。もっと可愛い格好すれば良いのに、と都はちょっと思ってしまうがここは職場だった。結構色白だと気がついて羨ましかった。
 「あの、OSPF、ってあるじゃないですか。LAN側で使うやつ。」
 「うん、あるある。」
 確かに都が働くこの会社が提供しているL3のMPLSサービスでは、客宅ルーターのWAN側プロトコルはBGPかスタティックしか実装出来ない。それ故OSPFはLAN側で使うもの、という認識にはなってしまうだろう。ここでそこを突っ込むと話の腰を折るし、そんな詰め込んだって仕方がないと思って都は頷くだけにした。
 CJ案件の既存コンフィグが来たことで何か話があったのかなと思ったが、全く違う話のようだ。でも早速頼りにしてくれたのだろうかと都はちょっと嬉しかった。
 「あれって、ルーティングテーブル?には乗ってないけどもらってるルート、って見えないですよね?」
 岸谷はルーティングテーブル、という言い方であっているのかどうかはっきりしないようだ。自分の言ってることわかります?と聞いているかのように岸谷は少し不安げな色を浮かべた瞳で都を見ながら喋る。都は軽く頷きながら話を聞いた。
 「あー。BGPのリシーブド・ルートみたいに見えないの、ってこと?」
 都は岸谷の言いたいことがわかったが、一応確認した。
 「そう!それです!そういう風に見る方法ってないですよねー。」
 岸谷は少し声が大きくなった。都がすぐに岸谷の言いたいことを理解してくれたのを喜んでくれたらしい。
 「BGPみたいに、隣から受け取ってるルート一覧、みたいに見やすくはないけど、確認する方法はあるよ。」
 「え!そうなんですか!」
 岸谷はちょっと驚いただけだが通る声なので、ものすごいびっくりしたように聞こえて少し周りの席の人間が振り返った。岸谷はそれに気がついて、すみませんお騒がせしてとあっちこっちを向いて軽く頭を下げていた。その声も通るのでとにかく一生懸命な感じが微笑ましく、周りを和ませていた。