06-01

2022-02-06

 昨日は遅かったのでゆっくり眠っていたかったが、今日は実家へ帰らないといけない。帰る前には部屋の掃除を済ませておきたかった。日曜にやっても良いのだが、日曜は一日ひたすらのんびりしたいので、できる限り家事は今日すませたい。それでも6時の目覚ましでは起きることができず、結局起きたのは7時。一人暮らしの部屋とは言え、掃除が終わるのにはだいたい1時間半くらいかかる。洗濯機を回しながら掃除をし、コーヒーを飲みながら洗濯物を室内に吊るしたりと朝からばたばたしているが、仕事をしている時のようなストレスや緊張感は皆無だ。窓を開けて掃除をするが、まだ何も身につけずにいても寒くもないから、家事をこなしつつ開放的な気分というおかしなことになっている。部屋にいる時には極力何も着ない風習は一人暮らしを始めてからそうなので、開放的な気分といっても今更感はある。しかし毎日仕事へ行くときは好きでもないパンプス、ドレスコードに沿った服装で窮屈な思いを毎日しているのだ。家で何も身につけずにいる開放感は都にはとても大事だった。
 化粧下地にフェイスパウダーを薄く乗せておしまいのいつもの簡単な化粧を済ませて服を選ぶ。まだショートパンツで十分過ごせる気温の高さなので下はジーンズのショートパンツで決まり。上は何にしようとクローゼットを眺めながらしばらく悩む。都の車はオレンジ色なので、オレンジの上はちょっと避けたい。どんだけオレンジ好きなんだよと人から思われるほど主張が激しくなるのは憚られる。それでも都はなんとなくオレンジを着てしまって駐車場に着いてから、あ、しまった、と思うことはしばしばあった。
 都の同僚の派遣社員で良くオレンジ色のセーターやポロシャツを着ている人がいて、時折都とオレンジが被りオレンジ談義になることがある。彼も愛用の自転車がオレンジ色で使っているヘルメットもオレンジ色だという。なので間違ってオレンジの服を着るとほんとにオレンジ色が走っているようになって、ちょっとまずいと思うと言って都と笑っていた。結局都は上は7分袖の襟ぐりのゆるいTシャツにした。袖と首回りだけ緑青色であとは白い。胸には都の誕生日である13がステンシルフォントで大きく書かれている。これならオレンジからだいぶ離れていて大丈夫と都は一人可笑しがった。
 玄関でビーチサンダルに足を通し、玄関廊下の収納扉を開いて収納扉の全身鏡に映してみる。ショートパンツから伸びる長くない脚の足首に巻かれた色紐のアンクレットが可愛いと自画自賛した。ボーイッシュという言葉が鏡の自分を見て浮かぶ。ショートパンツを履いて、色気よりも可愛さが出るのは自分の良いところだと都は思っているので今日もあたしかわいいぞと思ってにやにやしそうになる。もし色気が出るよなタイプだったらきっと恥ずかしくてショートパンツなんて履けなかったろう。夏場街を歩くとショートパンツから綺麗で長い脚を伸ばしヒールの高いサンダルをつっかけている女の子を見かけるが、良くあんなセクシーな格好できるなと、自分もショートパンツを履いているのに思うことがある。都がそうはならないのは良かったのか悪かったのかは微妙なのかもしれないが、都は前向きに捉えていた。三十代半ばになってボーイッシュなんてそんなにいないだろう。鏡に映った自分は7割り増しくらいで良く見えることを忘れて思った。ハンドバッグを拾い上げ、玄関からかろうじて見えるベッドマットレスの上のぬいぐるみたちに行ってきます、お留守番よろしくね、と声をかけて部屋を出た。
 日差しはまだ暑いが夏独特の刺すような強さは弱まって来ている。もう夏終わっちゃうな、青さは透き通るように綺麗だがすでに雲の位置は高くなって来ている空を見上げて思った。ビーチサンダルとショートパンツで歩く自分の足を見て、この格好が出来るのも今年もあとちょっとか、とつまらない気持ちになってくる。開放的な格好が出来ないのは都にとっては大げさに言って苦痛だ。涼しくなる前にもう一度海へ行っておきたい。
都のオレンジのハッチバックの中はもうすっかり暑くなっていた。ハンドバッグを助手席に置きながらビーチサンダルを脱ぐ。シート下から運転用のスリッポンを取り出して履き、ブレーキペダルを踏んでイグニッションボタンを押す。ブルートゥースで音楽プレイヤーをつないだり、車載用の空気清浄機をつけたりとばたばたやってから、シートベルトを締めてミラーを調整し、しゅっぱーつ、と言いながらサイドブレーキバーを落とし車を出した。
 土曜は行楽客や買い物客などで道は混んでいる。駐車場のあるところから国道に出るまでの道はのろのろで時間がかかるが、車を運転するのが好きな都はそれでもハンドルを握るのが楽しく感じた。1500回転くらいで地を滑るように走り、カーブの多い道もすいすいと進んで行く。都は散歩も好きだが徒歩では絶対に味わうことのできない感覚だ。好きな音楽を流しながら、目の前の風景が刻々と変わって行く。アクセルをちょっと踏んでいるだけなのに車はどんどん進んで行く。カーブから導線を伸ばしてそこに車を入れて行くようにハンドルを切る。60キロ前後ですいすい進めている時が一番ドライブが楽しいと思う時なんじゃないかと都は思った。
 土日の午前中だと都のマンションから実家までは車で一時間以上かかる。最寄りのバス停までは徒歩3分くらいなのだが、肝心のバスは一時間に一本しかなく、最寄りの電車の駅まで三十分歩いた方が早かったりする土地に都の実家はあった。その最寄りの電車の駅から見ると小高い山を越えたさらに向こうにある僻地と言ってよかった。木々が茂り、田畑が広がる中、点々と古い大きな家が並ぶ曲がりくねった細い道を抜けると少し奥まったところに三十軒程度の分譲住宅区画があり、十数軒からなる島の角地に都の実家はあった。オレンジ色の瓦は父が家の塗装し直しを業者に依頼する時に、都に決めさせ色だった。最初は綺麗なオレンジで周りの家から見るとちょっと違和感があったくらいだったが、すっかり日焼けてだいぶくすみ周りの風景にも馴染んでしまった。家の駐車場に普段はもう車は止まっていない。都は駐車場に車を入れる。今日は帰ると言ってあったので門扉は母が開けておいてくれていた。
 「おかえり。」
 玄関に入ると母は都を迎えた。都はただいまと言いながら母の様子を確認するように見た。今日は元気そうだ。免疫疾患を抱えているので慢性的に体調不良が続いたりする。都は実家へ帰るとまず母の顔色や様子から体調を伺うことにしていた。今日は元気な方のようで少し安堵した。母は都のハンドバッグを受け取った。もう七十になるが見た目はかなり若いのでせいぜい六十前後にしか見られない。免疫疾患に罹ってから随分痩せてしまったが、それでも顔は若かった。都の童顔は母に似たのだろうと昔からよく言われていた。背が大きくないのも母似だ。細くて真っ直ぐな髪の毛と左利き、少し変わり者の性格は父から受け継いだ。
 「お庭に水あげちゃった?」
 都は家に上る前に聞いた。
 「都が帰ってくるから今日はやってないよ。」
 母は笑って返した。都は庭に水をまく作業が好きだったので実家に帰ってくるとやることにしていた。
 「じゃあやってくるー。」
 都はそう言って家に上がらず玄関を出ようとした。
 「先にお父さんに挨拶したら?」
 そう言って母に止められて、それもそうだと思い直して都は家へ上がった。
 一階の和室には父が使っていたライティングデスクがある。机は閉められたままで、机の物の乗せの上に父が元気だった頃の写真と、お供えの水とお茶とが乗っている。ライティングデスクは母が綺麗にしているので埃ひとつついていない。
 「おとーさん、ただいまー。元気ぃ?」
 都は生前そうしていたようにちょっとふざけながら挨拶した。元気なわけないのにね、と思って父の写真をみると、元気なわけねーだろ、と冗談めかして怒っているように見えて可笑しかった。無宗教だったので仏壇もないのだが、母は毎日水とお茶を朝夕供えていた。花は庭に咲いているものや買って来たものを時々変えて小さな花瓶に差している。都はお香に火をつけてお香立てに立てた。手を合わせるわけでもなく祈るわけでもない。なんとなく写真の父と目を合わせて見る。これが都と父の会話だった。父と向き合っているととても静かな時間が流れていてどこか落ち着いた気分になるのは不思議だ。生前はふざけてばかりいたのに。
 「じゃあ、お庭にお水まいてくるね。」
 父の写真を見ながら都はそう言った。生前のように、おう、とだけ返事をしたような気がした。