05-12

2022-01-18

05-12

 オンラインのタイムカードを切ってから通常端末も落とし、社内用携帯電話、無線マウスの電源を切って袖机にしまいこむ。ネックストラップに吊るしてある鍵を使うので、袖机の方に屈みながら鍵をかける。2台のディスプレイの電源も落とし、机の下においてあったハンドバッグを拾いながら立ち上がった。ハンドバッグを右肘で吊るし椅子をしまう。パソコン切った、袖机鍵かけた、と指差し確認。もう一度身を屈めて袖机の引き出しをそっと引っ張って開かないことを確認してから身を起こしてフロアを振り返る。柱で見えないところ以外は誰もいない。キーボードを叩く音がどこかから聞こえる。高松課長か岸谷のものだろうか。
さあ帰ろうと思ったら離れた柱の向こうから岸谷が出て来て目があった。岸谷は都を見つけたと言う顔をして小走りに都の方へ走ってくる。ヒールがバタンバタンとフリーアクセスの床板を蹴る音は静かなフロアにはうるさい。何だろう、何かまたトラブったのだろうか。pingが欠けるとか帯域試験で契約帯域まで達しないとか。そう考えているうちに岸谷が都の席の島まで来た。
 「間宮さん、今日はありがとうございました。おかげで回線上がりました。」
 岸谷は都の目の前まで来ると軽く会釈をしながら礼を言ってきた。大きな瞳で真面目な顔してしている。都はそんなに岸谷の顔を見る機会もなかったが、もうちょっとどこか余裕のある表情を普段はしていたと思った。
 「いいえ。とんでもない。あたし何もしてないよ。」
 本当にちょっと見ただけで都は何もしていなかった。岸谷の感謝の言葉はこの後に続くさらなる相談事の前振りだろうと思って都は少し返事が硬くなったかもしれない。
 「いえいえ、間宮さんのアドバイスなかったらあたし今日帰れませんでしたよ。ほんとに助かりました。」
 また軽く会釈をしながら岸谷は言った。
 「オフショアセンター、ゴネなかった?」
 この手の東京で見つけた設定の変更は海外オフショアセンターは嫌がるので、都は気になっていた。
 「はい、それも間宮さんの言った通りでした。もし設定が違ったとしても上がるはずだからキャリアイシューだ、ってやっはり言い張られてしまって。」
 岸谷はつい笑ってしまっていた。都もつられて声を出して笑ってしまった。想定どおり頑なだと言うことなのだが、頑なだ、という都たちの発想が実はおかしいのかもしれない。彼らはこちらからの提案に対して、やらない、と言っているのではなく、単に彼らはこう思うと意見を述べているに過ぎないのではないのか。それを覆せれば彼らはこちらの提案を受け入れてくれるのだ。それを頑なと取るのは少し勝手だし、東京の方が上の立場だという間違った思い込みが東京側にあるのかもしれない。おそらく彼らは東京との関係はフェアであるべきだと思っているだろう。
 「だから間宮さんに言われた通り、違うベンダーの機器同士だとコンパチビリティーイシューで上がらないことはあたしたちメニーエクスペリエンスだからトライしてよ、って言ったらオーケー、やってみる、ってなって。」
 英語で仕事をしていると日本語の会話に英語がカタカナ的に混じって来てしまう。しかしあれだけネイティブな英語を喋るのに、岸谷はカタカナ発音で喋っていて都は器用だなあと思った。
 「間宮さんに見てもらわなかったらもう今日ずーっと開通しなかったです。ありがとうございます。」
岸谷は目を閉じてずっとを強調して言って、また軽く会釈をしながら礼を言った。今度は笑顔だった。大きな瞳はとても素直に見えた。
 「でもオフショアセンターにちゃんと変えさせたの岸谷さんだし。あたし何もしてないよ、ほんとに。」
 日本人特有のいえいえ、そんなことないですのやりとりがそれから少しあった。相談を最初に受けた岩砂が自分で専用端末を見れば同じことを言ったはずだし、岸谷が所属するグループの誰かが他にまだ残っていれば、その人に聞いて同じようなことを言われただろう。都だから解決できたということはない。だからそこまでお礼を言われる筋合いもないと都は思っていた。
 それでもありがとう、と言われると役に立てたのかなと嬉しかったし、岸谷の笑顔は仲良くなれるかどうか不安だった都に安堵をもたらしもした。
 「また何かあったら聞いてね。でも、聞かれてもわかんないこともいっぱいあるから、うーん、なんだろうね、わかんない、で終わっちゃうことも多いかもだけど。」
 都は嬉しくなって、また頼って欲しいようなことを言ったが、言ったそばから今日の一件で岸谷の期待度が高くなってしまうと、都が見当もつかないことを聞かれた時に失望されるのが嫌なので、ついふざけた調子で予防線を張ってしまった。しかし岸谷はそれを都の謙遜ととったようで、そんなことないですと否定していた。
 「今後ともよろしくお願いします。」
 岸谷は軽く腰を折って言った。
 「こちらこそよろしくお願いします。」
 都も腰を折って頭を下げた。

 オフィスから最寄り駅までは大体徒歩10分だ。普段の曜日であれば22時頃ならオフィス街は大分静かになっているのだが、どうも金曜の夜というのは浮かれた雰囲気がある。飲んでこれから帰るにしても明日が休みだからだろう、羽目を外し過ぎの感じで大きな笑い声をあげる男女のグループをいくつか見かける。若いのかと思うと意外とそうでもない。そうやってストレスを発散しなくてはいけないくらい、日々厳しい仕事をこなしているのだ。週末の夜くらい学生みたいに騒いだっていいじゃないか。夜のオフィス街で多少大声で笑ったところで誰の迷惑にもならない。
 駅のガード下に並ぶ飲み屋はどの店も外にテーブルを出しているが、どこも一杯で賑やかを通り越してうるさい。飲み屋街の外テーブルがもっとも騒がしいのも金曜の夜だ。お酒自体も宴席も苦手な都にはその楽しさは良く理解できない。しかし遠目で見ていると、一週間自分が守りたいもののために、それは家族かもしれないし、自分の生活水準かもしれないし、人にはあえて言わない目指している高い目標に辿り着くためにかもしれないけれど、一生懸命働いてようやく明日解放される、そういうことをささやかに祝っているように映る。そうであれば、騒がしいとか酒臭いとか疎ましく思うのは間違っている気もする。それでも駅への地下道を歩くと低い天井にあちこちからの笑い声が響いたり、駅まで一緒に帰ることにした同僚たちなのだろうか数人の徒党が話しに夢中になって歩く速度が遅いため壁になって都の行く手を塞いだりすると、都はやっぱり苛々してしまう。賑わう飲み屋で耳が一時的に遠くなるのか酔っ払うと大声で喋る人が多く、それも都には鬱陶しい。
 普通の曜日でこの時間になれば電車は座れるとまではいかなくても空いてくるのに、飲みで遅くなった連中で混んでいるだけでなく、酒臭かったり、騒がしかったりする。飲んだことで一週間が終わったという開放感というよりは安堵感のようなものが増幅されるのだろう、姿勢が緩んでパーソナルスペースが広がってくる。おそらくは素面での出勤時はもっと周りに気を使っているのだろうが、全く気を使わなくなっている人は多い。もっとみんなで詰めてくれればもう少し車内は空くのに。金曜夜の電車はとにかく酒臭いのが都は嫌だった。
 こうやって一週間の仕事の疲れやストレスと言ったものを発散して週末を過ごせばまた来週からリフレッシュした状態で仕事にのぞめるということなのだろうか。金曜の夜の混雑はほんとに嫌、と思いながら帰宅している自分はどうなのだろう。自宅最寄り駅について電車を降りてもまだどこか酒臭い。今年は涼しくなるのが早い。クーラーが効いているとは言え、飲み帰りのビジネスマンでごった返した車内から降りた酔客は空気が清々しく感じただろう。夏大好きな都にはそれすらもつまらなかった。それでも自宅へ帰って、パンプスを捨てるように脱ぎ、全てのしがらみから逃れるように身につけているものを全部剥いで、洗面所で手を洗い、うがいをして化粧を落とし鏡を見る。すると思わず一週間終わったー、と誰にいうとでもなく大きなため息混じりに声を出してしまい、どこか解放された気分にちょっとなりはするのだ。