05-11

2022-02-06

 監視システムのターゲットを切り替えた後、まとめたログを圧縮ファイルにして、工事年月日と工事内容でファイル名を書き換える。客宅ルーターの最新コンフィグをアップロードしておくシステムには対象の客宅ルーター毎に工事ログをアップロードしてくタブがある。そこへその圧縮ファイルをアップロードしておく。後日になってお客からあの工事以来不具合がある、と申告を受けた時に事前事後のログから原因を探るのに使ったりする。ログにお客からの申告に該当するものがなく、お客起因だと言い切れる時もあるし、作業中の変化を実際見落としていてそれがのちの不具合になったことを発見する時もある。何れにせよ取得した工事ログは保存しておく必要があった。
 通常端末のスクリーンロックを解いてメーラーをチェックすると、岩砂からお客へのそれではクローズしますという返信と、オフショアセンターへのお客のテストOKだったので本日はクローズだという返信とが出ていた。お客からは特に返信はないが、オフショアセンターからは了解した旨の簡単な返信が来ている。都がやらなければならない後処理は全部終わったので、今日の仕事は終了だ。タスクバーの右端にある時刻は21時33分だった。切り替え完了後お客と連絡が取れない時間があっただけで順調に終わった工事だ。
 あとはオンラインのタイムカードを切ってPCの電源を落として帰るだけだが、都は帰っていいものかちょっと悩んだ。専用端末では既に元々のLAN切り替え工事のために開けてあったターミナルウィンドウは全て閉じてしまっていたが、岸谷の回線のプロバイダエッジルーターとプロバイダエッジスイッチのターミナルウィンドウはまだ開けてある。プロバイダエッジルーターのターミナルウィンドウをクリックして、矢印キーで客宅ルーターへのpingコマンドを呼び出し、ping回数を100回とするオプションをつけてからリターンキーを叩く。欠けなく100パーセント到達した。東京にSEを置く案件でもないようだし、置く案件だとしてもWAN開通はPMとオフショアセンターだけでやるという体制になっているプロジェクトなのだろうから、都があまり出しゃばるのも良くないように思った。
 それにWAN開通でこれ以上のトラブルがあるとすれば、ほぼ回線キャリアの責任区分範囲でのトラブルだ。そうなると都は何か思いつくことや経験から当てはまることを岸谷に助言する程度のサポートしか出来ない。岸谷がそれをオフショアセンターへ伝えるだけなのだが、オフショアセンターの担当者であれば思いつくようなものがほとんどだし、正直こちらから頻繁に口を出すと向こうのトラブルシューティングの邪魔をしているだけになる。ただ、岸谷は新卒の新入社員でスキルや知識の蓄積も不十分だろうし、トラブル時は誰か相談できる人がいた方が良いのも確かだ。複数の人間で話しているうちに一人では思いもつかなかったアイディアが出てくることは良くあることでもある。
 都はこうやって自分の仕事が終わったのに、誰かのトラブル相談が気になって帰る決心がつかず、最終的に別のトラブル相談に巻き込まれたりして帰れなくなることが良くあった。それは単純に都の日本人的労働気質によるところもあるし、助力を頼まれて一言助言だけ残して立ち去って良いものなのかという弱気な良心が邪魔をしているところもある。しかし根底には他人の役にたつ人間でありたい、いい加減な生き方でのらりくらりと生きてきてしまったけれど、他人に当てにされる人間でありたいという願望があるのだ。都はあまりそのことを意識しないようにしているけれど。そうでなければこんな自分勝手な人間が誰かのために残業しようなんて思う訳がない。都は自分が親切な人間ではないのはわかっていた。
 「間宮さん、じゃあ今日はどうもありがとうございました。」
 都が帰り支度を躊躇している間に、岩砂は帰宅する決断を下していたようだ。振り返るって見るとトートバッグを肩から掛けた岩砂が立っていた。
 「いいえ、とんでもないです。ありがとうございました。」
 都は椅子の向きを変えて岩砂の方を向いて膝に手をついてお辞儀をした。
 「間宮さん帰れないんですか?」
 岩砂は都が未だ全然仕事をしているように見えたので聞いた。岩砂はマネージャーではなかったが役職者ではある。自分が使っている派遣社員SEの稼働はある程度見えている必要があるようで、都が残業をしているとたまにこう聞かれることがある。単に都が過負荷になっていないか心配してくれているというのもあるだろう。過負荷になっているようなら、マネージャーにアサイン案件の調整を進言しないといけないのかもしれない。
倒れられたら困るから。そう時折声を掛けられる。でも都は別に自分一人が倒れたところで誰かすぐに代わりが見つかるはずだと思っている。だから都の仕事は派遣社員がやっているのだ。擦り切れるまで使って、次を見つければいいじゃない。都は半ば自暴自棄に思うことがあった。しかしここは世に言うブラック企業ではなく、とてもホワイトな職場だった。
 「いえ、もう帰ろうかなーと思ってるんですけど…。」
 都は膝に手をついたまま伏し目がちにそう言って、見えるはずのない岸谷の背中の方を見やるように顔を上げて離れた柱の方へ視線を送った。
 「岸谷さんのやつ放っておいてもいいですかね。」
 「大丈夫ですよ、あとはオフショアセンターの試験終われば良いだけなんで。」
 岩砂は都の余計な心配にもいつもの楽観的な見通しを語った。
 「一応高松課長に聞いてきますよ。」
 そう笑顔で岩砂は言うと岸谷の席の方へトートバッグを肩から下げたまま歩いて行った。岸谷の上長が誰だかは都は知らなかったが、岩砂の言い振りからして高松課長が岸谷の上長のようだ。高松課長は忙しい人で都が残業して遅くまでいると必ず未だ仕事をしている人だ。フロアに高松課長と都二人だけと言うことは何度もある。なので都は高松課長のグループに属する派遣社員ではなかったが互いに顔見知りだったし、話をすることもあった。今日の岸谷の工事に誰もついていないのかと思ったが、直属のマネージャーが残っているのであれば問題はなさそうな気がしてきた。
 岩砂が見えなくなった柱の方を見ていると、一方の柱の影から高松課長が出てきてもう一方の柱の影に消えて行った。高松課長の低い声が少し聞こえてきたと思うと、岸谷のはっきりとした調子の声も聞こえてきた。高松課長が出てきた柱の影からは岩砂も出てきて、もう一方の柱の向こうを見ているようだ。高松課長と岸谷との間でいくつか会話が交わされると、岸谷の英語で喋る声が聞こえてきた。さらにまた高松課長と岸谷との間でいくつか会話が交わされた後、高松課長が岩砂に何か話しかけたようで、岩砂が頷きながら何度か返事をした。そのあと、岩砂が軽く会釈をしながら挨拶をしたらしく、それに返す高松課長と岸谷との声が聞こえた。戻ってくる岩砂は都がこっちを見ているのに気がついて、大丈夫と言う意味で頷いていた。
 「一応岸谷さんにオフショアセンターに電話して何か問題起きてるかどうか聞いてもらったんですけど順調だと言ってまして。あとは試験結果出てくるの待っているだけなんで大丈夫です!」
 最後の方は岩砂のいつものふざけた調子の勢いをつけて言った。都はつい笑ってしまった。
 「ありがとうございます。じゃあ、あたしも遠慮なく帰ります!」
 都も同じように返した。都は岩砂とお互いにお疲れさまでしたと言い合って、岩砂は先に帰ることを詫びで出口の方へ歩いて行った。都はこれ以上いても本当に余計なお世話にしかならないので、専用端末で残しておいたターミナルウィンドウを閉じて、専用端末自体を落とした。机の上で寝ていた腕時計を拾い上げて右腕に回しながら時間を見た。21時48分だった。