05-10
「岩砂さん、岸谷さんのやつ上がりました!」
都は声は大きくないが、いつも岩砂がやっているようなちょっとふざけた感じの勢いをつけて言った。
「え、まじっすか。オフショアセンターもうやってくれたんすかね。」
かなり腰を落として座っていた岩砂はその姿勢のまま都を見上げた。あまりにもひどい姿勢なので都は笑ってしまいそうになった。
「みたいですね。プロバイダエッジルーターから客宅ルーターへpingも飛ぶようになりましたよ。」
都は自分の席の方へ視線を向けて、都の席の専用端末で確認できたことを示唆しながら言った。なんとなく言い方が自慢げになってしまって都はつい笑ってしまった。
「おー。まじっすか。え?間宮さんずっと見ててくれたんですか、もしかして。」
岩砂はそう言いながら姿勢を直し席から立った。岩砂は都をSEとしてしょっちゅう使っているので都のやり方はわかっていた。
「なんかすみません。間宮さんの案件でもないのに。」
「いーえ。」
岩砂が専用端末のログを確認したがっているのは理解できたので、都は岩砂の軽い謝罪を明るく打ち消しながら自席へ戻り始めた。岩砂は付いてきた。
「で、こっちがプロバイダエッジスイッチなんですけど。」
都は着席せず立ったまま身をかがめてマウスを操作する。プロバイダエッジスイッチのターミナルウィンドウをクリックし、インターフェイスのみのコンフィグを確認するコマンドを矢印キーで呼び出してリターンキーを叩いた。
「オートになっていてー。」
「はいはい。」
自動設定になっていることを岩砂に確認してもらってから、都はインターフェイスの状態を確認するコマンドを呼び出してリターンキーを叩く。
「で、インターフェイスが上がって、スピードは100、デュプレックスはフルでネゴってまーす。」
「あー。ほんとですねー。ん?てことはキャリアの機器ってオートだってことですよね?」
都の読み上げと一緒に状態を確認した岩砂は考えを整理するように言った。
「ですです。」
都は肯定した。
「そーですかー。本当に相性問題で上がらなかったみたいですねえ。」
岩砂は標準規格通り上がってこなかったことに結果から納得行ったようだった。
「で、こっちがプロバイダエッジルーターで。」
都はマウスでプロバイダエッジルーターのターミナルウィンドウをクリックし、客宅ルーターへpingを打つコマンドを矢印キーで呼び出してリターンキーを叩く。pingが到達したことを示す感嘆符が5回連続で表示される。
「おー。いきましたねー。岸谷さんにはもう言ってくれました?」
岩砂は何でもないことを聞くように聞いた。
「あ、いえ、まだです。」
都は何か突かれたくないことを突かれたように回答がたどたどしくなった。岩砂から目を逸らすことはなかったが、助けを求めるような気色になっていたかもしれない。
「あ、じゃあ俺言ってきますよ。すいません、お手数かけてしまって。ありがとうございます。」
岩砂は都が岸谷に話しかけづらいのを察したようにすぐ自分で引き取り、都に礼を言ってから踵を返して岸谷の席の方へ歩いて行った。都は安堵したのと同時に自分で作ったであろう壁を乗り越えて声すらかけられない自分に嫌気がさした。しかし自分への嫌気よりも安堵の方が全然勝ってしまっていて何の反省も抱きそうにない。
都は柱の向こうへ見えなくなるまで岩砂の背中を見送ってから椅子に腰掛けた。通常端末のスクリーンロックを解くとタスクバーのメーラーに新着メールがあることを知らせるアイコンが出ていた。メーラーをタスクバーから起こして見ると、送信者はLAN切り替え工事対象拠点の現地お客だった。メーラーはプレビュー表示をオフにしてあるので中身をざっと確認は出来ない。何か問題があったのかと緊張ともに息を吸いながらメールを開くと、全部OKだ、今日はありがとう、という二行からなるお客からのクローズ連絡だった。都は吸った息を吐いてから後ろを振り返った。まだ岩砂は岸谷のところにいそうだ。とりあえず様々なログを一気に取るマクロを客宅ルーターのターミナルウィンドウで走らせた。マクロが回りきってから、念のため現在運用しているコンフィグと、ルーターのメモリ内に保存されているコンフィグとに差分がないか確認するコマンドを叩いて、コンフィグのセーブ忘れがないか確認した。一応今日の工事は無事終わったようだ。ようやく安心できる気がしてため息が漏れてしまった。
ほとんど人のいなくなったオフィスではかなり席が離れていても会話をしたり電話をしたりすれば、会話の中身までははっきりと聞き取れないもののその声はある程度聞こえてくる。岩砂の声はぼそぼそと聞こえるだけだが、岸谷の声は驚いたような調子や喜んだ調子が芯の通ったそれで聞こえてくる。疎通できるようになったことを喜んでくれたのかな。都は自分の口元が緩んでしまう気がした。
都がLAN切り替え工事のログをまとめていると、後ろからフリーアクセスの床をガタガタ言わせながら誰か近づいてきた。
「間宮さん、岸谷さんにオフショアセンターへ電話で確認してもらったら、向こうでも疎通確認出来たのでこれから開通試験をやるそうです。」
岩砂だった。オフショアセンターからメールが来るのを待っているといつになるかわからないので、岸谷が電話して確認したようだ。もしこのままこちらから電話もしないで待っていると、おそらく1、2時間くらいたった後に、開通試験が終わった、結果を添付する、とテスト結果だけ送られて来るだけだったろう。それはそれで確かに無駄はないのだが、日本時間で21時を回っている中、こちらはただ何の情報もなく待機しているだけになってしまう。それにそれは開通試験を始めてくれていればの話だ。自動設定で上がったことで良しとしたのか、それとも自動設定で上がるのはおかしいとキャリアに問い合わせを始めてしまったのかはわからない。後者だともう日本時間の今日中に終わるのは難しくなることが予想されるので、今日中の開通は諦めるかどうか判断をしなくてはいけなくなる。
開通試験を始めたということなので、自動設定で上がったことを受け入れたようだ。こういうことはメーカーが異なる機器同士のUTPイーサーネット接続では起こりうることだと納得したのか、それともキャリアから局舎側のハンドオフは自動設定でとの事前通知はあったが単にそれを見落としていただけなので黙りこんだのかはわからない。いずれにせよ開通試験へ進めたのは良かった。
「良かったです。あとは開通試験でエラーが出ないことを祈るのみですね。」
都は振り返りながらいつもの悲観前提で言った。
「いやー、もう大丈夫でしょう!」
それに対し岩砂はいつもの楽観前提で言った。
「あ、そう言えばお客さんからエブリシング・イズ・オーケーって来ましたよ。」
「え、まじっすか!」
都は自分の通常端末のメーラーからお客のメールを開いて岩砂に見るよに促した。
「おー。じゃあ、我々の工事はクローズですね。」
岩砂は都が開いたメールを覗き込んで言った。
「ですね。じゃああたしは監視システムのターゲットを切り替えときますね。」
基本的にはLAN切り替えまでは構築段階なので、WANが開通しても保守チームはその回線を引き取ってはくれない。監視システムへのターゲットの登録は構築チームで行うが、登録はしてもLAN切り替えが終わるまでは監視対象から外れているフラグを立てておく。今回の工事のように旧回線と旧客宅ルーターから新規回線と新規客宅ルーターへの切り替えであれば、切り替えが終わったら旧回線と旧客宅ルーターのフラグを非監視へ変更し、新規回線と新規客宅ルーターのフラグを監視へ変更する。
「ありがとうございます。じゃあ私の方でお客に体制解除するぞと返して、オフショアセンターのスタンバイもリリースしますね。」
「はい、お願いします。」
岩砂は都の返事を聞き軽く頷いてから自席へ戻って行った。
岸谷のWAN開通トラブルのサポートをしていたら、すっかり自分のLAN切り替え工事のことは注意散漫になっていた。それでも何事もなく無事終わったのだから、その工事に対して意識が薄れた時にトラブルの起こる確率が高い、というのは都の思い込みなのだ。別のトラブルに引っ張られて元のものへの注意が散漫になっただけで、もう大丈夫と楽観的に構えて散漫になったのとは違うと、都は頭の中で自説の正しさを擁護してみようとした。