05-09
コーヒーを飲みながらぼんやりと専用端末の画面を眺めていた。プロバイダエッジルーターのターミナルウィンドウでは、pingの不達を示すピリオドが5回続くと到達率0パーセントだということを表示して改行し、あらためてpingが実行されるも不達、その繰り返しだった。pingが不達と判断されるまでの間隔は2秒なので、5回のping結果が連続して表示され切るには10秒かかる。なので不達が続く限りこのマクロに組み込まれた時刻表示は飛ばされてしまう。
時間を確認しようと、スマートフォンのスリープを解除し、ロック画面の時刻を見た。21時6分。もしかしたら22時には帰れないかも。そう思ってスマートフォンのロックボタンを押し再度スリープさせ、パタンと静かな音を立てながら机の上に置いて専用端末を見上げた。プロバイダエッジルーターのターミナルウィンドウを見ると、pingの到達を示す感嘆符が5回連続して表示されていた。5つの感嘆符に続いて到達率100パーセントであることと、5回の到達におけるラウンドトリップタイムの最小平均最大値が表示された後、改行して時刻が表示されるというログに変わっていた。こうやって突如pingの到達を発見すると、頭の中で本当に感嘆符が跳ね上がってくるように感じる。pingの到達の記号を感嘆符と決めた人もそう感じたからこの表示に決めたのだろうか。
都はプロバイダエッジスイッチのターミナルウィンドウをクリックし、さっきまで落ちていたはずのインターフェイスの状態を確認するコマンドを叩いた。インターフェイスは上がっていた。当該のインターフェイスのコンフィグのみを表示されるコマンドを叩くと、速度と通信方式の設定は自動設定に変わっている。もう一度インターフェイスの状態を表示するコマンドを矢印キーで呼び出して叩く。速度と通信方式は100メガ、全二重になっていた。つまり対向のキャリアの装置は自動設定だったことになる。こちらが固定ならキャリアの装置が半二重で上がってくるはずなのに上がらなかったのは機器間の相性の可能性が高そうだ。速度が100メガで上がってきた、ということはキャリアの機器のインターフェイスはファストイーサーネットになる。速度の上限は100メガだ。それに対しプロバイダエッジスイッチのインターフェイスはギガビットイーサーネット。速度の上限は1ギガ。実現できる速度の違うインターフェイスを自動設定で接続するとこの機器間の相性問題は起こることがある。今回もこのパターンだろう。念のため客宅ルーター、プロバイダエッジルーター双方からお互いに向かって、サイズの大きいpingを数千発同時に打った方が良い。全二重通信が実現していれば上りと下りで占有のパスができるので、欠けなく到達するはずだ。どこかで半二重になっていると、そこは単線の鉄道のように上りか下りどちらかしか通れないので、衝突が起きパケットが欠ける。つまり不達が発生する。この双方向pingはルーターとルーターの間の回線で半二重区間をあぶり出すのに有益だ。片方向のpingでも、戻りパケットで双方向ということにもなるがタイミングが合い過ぎて衝突が観察されないことが多い。両端から送出する方が結果として如実に現れる。
海外オフショアセンターはWAN開通の時に回線の帯域が契約通りの速度を実現できるかどうかをチェックするスループット試験を実施する。これは双方向にパケットを流して欠けがあるかどうかもチェックしているので、そちらに任せれば良さそうだ。プロバイダエッジルーターのターミナルウィンドウで回していたマクロを止めて、客宅ルーターのIPに向けてIPヘッダ込みのサイズ1500バイトで二千発ほどpingを打ってみた。欠けはなく到達率100パーセント。ぱっと見は問題はなさそうに見える。双方向でやってないのではっきりとは言えないが。いずれにせよWANは上がった。
都は後ろを振り返った。岸谷の席はかなり離れていて柱が何本もあるので全く見えない。岩砂はそんなに離れていないがこちらも柱が邪魔で都の席からは直接見えない。岸谷が彼女の席の近くの専用端末でpingの到達状況をモニターしているかどうかはわからない。東京にSEをおかない案件だと、PMによっては専用端末は一度も覗くことなく終わらせてしまう人もいる。SE業務はオフショアセンターの仕事なのだから、東京のPMはオフショアセンターが寄越すテスト結果だけチェックしていれば良い。それは理にかなっているし、オフショアセンターがやっているのにこちらでpingの到達不達を確認するのは二重稼働で効率が悪い。そんなことをしている時間があれば、他の案件の進捗を確認したり、営業や他部署への進捗報告や意識合わせをしたり、ヒアリングシートを作成したり精査したり、WBSを作成・更新したり、システム上必要な処理をしたりと、PMとしてやらなければいけないことはたくさんある。
都は自分が助言したことでpingが到達するようになったことが嬉しかったのもあったし、そのことで岸谷と仲良くなれるきっかけになるかもしれないという期待も抱いてしまう。疎通できたことを岸谷に知らせたいと思った。まるで嬉しいことをごく親しい人に共有したいような興奮を覚える。都は席を立ち上がって岸谷の席の方へ向かった。しかし都から声をかけたことは一度もない。都はすぐに足を止めてしまった。もし岸谷が派遣社員の新人だったら都はあまり躊躇することなく声をかけられたかもしれない。しかし社員との間には何か壁のようなものがあるような気がしていて、長く知っている人でも自分からは話しかけにくいことが多い。都は進む角度を変えて岩砂の席の方へ向かった。岩砂がPMをしている拠点数の多いお客案件で都は東京のSEをしているので、一緒に仕事をする機会が多く慣れていることもあって話しやすかった。
都が岸谷との間に感じている壁は、都が自分の生き方への後ろめたさやそこから生まれる僻みといったものから勝手に感じているだけのものかもしれない。実際岩砂のように一緒に仕事をすることが多い人間にはあまり躊躇なく話しかけられる。もし岩砂があまりにも忙しくて都が話しかけた時後にしてほしいと言われても特に落ち込んだりもしない。笑顔ですみません、じゃまた後ほどお願いますと言って去るだけだ。もし岸谷に声をかけてそうやって繁忙を理由に後回しにされたらきっと落ち込んでしまい、もう二度と自分からは声をかけなたくないと思うだろう。マネージャーや先輩社員であればそんなことはないのだから、と偏屈な気持ちにもなってしまう。新卒の新入社員と三十代半ばの派遣社員。親しくなければ話しかけにくいのは当然だ。都は悪い方向へ開き直ってしまい、さっき感じた子供っぽい興奮も冷めてしまっていた。