05-02

05-02
岸谷はおそらく最初岩砂に助けを求めたのだろう。同じ会社の先輩であるのだから当然の行動だ。岩砂は都と同じ想定をしたのであれば、自身で空いている専用端末を使って状況を調べることは可能だったはずだ。それをせずに都に聞くように仕向けた。一つには自分が直面している問題をきちんと他人に説明できるようになる、と言う教育。一つには基本的に社員はいわゆる「手を動かす仕事」ではなく上流の業務をすることを求められているのだから、実際に端末を操作しルーターなどに入って調べるようなSE業務は派遣社員を使うようにする、と言う教育。もっとも自分で調べられるくらいのスキルは岸谷にはまだ難しいといういのもあるだろうし、普段からSE業務をしている都に頼んだ方が早いと言うのもあったろう。それに新入社員の岸谷が派遣社員の都とこれから一緒に新しい案件をやるのを岩砂が知っていて、ある程度岸谷が都とコネクションを築けた方が良いという気配りかもしれない。
岸谷が小走りに戻ってくる。蹴ったフリーアクセスフロアの床板が時々ガタガタとカーペットでくぐもった音を立てる。
「これで大丈夫でしょうか?」
岸谷は付箋を都に差し出しながら聞いた。都は付箋を受け取って書かれた内容を見た。達筆ではないけれどきちんとした字だった。丸文字に全くなっていない。はっきりとした性格なんだろうな、と都は字から印象を受けた。収容POP名だけでなく、客宅ルーターのピアとなるプロバイダエッジルーターのホスト名、回線を終端しているプロバイダエッジスイッチのホスト名も書いてあった。これらは海外のオフショアセンターの回線管理システムに載っていて、システムのアカウントを持っていれば見ることが出来る。ただ載っている場所がわかりにくい。岸谷はそれらをすぐに探し当てて来たようなので、ある程度この海外オフショアセンターの回線管理システムに慣れているようだ。もちろん、彼女が本件のPMのようなので、収容がわかった時点でノートを取っていたのかもしれない。いずれにせよある程度一人でPMを出来ているということだ。下山が言っていた、単回線の簡単なプロジェクトについては数件PMとしてやっている、というのは、単にやっているだけでなくて、きちんとこなせているということも含んでいたのだ。だから今度は東京のSEを使わなければいけない案件を、ということになったのかもしれない。岸谷の付箋にはもちろん回線ID、WAN側のIPアドレスも書かれていた。
「うん。だいじょーぶ。ありがとー。すごーい。欲しい情報全部あるー。」
都は欲しかった情報が全てきちんと網羅されていて素直に喜んでしまった。素直に喜んでしまった、ということは、岸谷がここまでの情報を綺麗に揃えてこられるほどのスキルはないと思っていたことの裏返しでもあり、都は喜んでしまったのはちょっとまずかったかもと思った。ただ、プロバイダ側のスイッチのホスト名まで書いて来たのは素直にすごいと思った。MPLSサービスのPMやSEである以上、ネットワークレイヤーの終端と終端、つまりプロバイダエッジルーターと客宅ルーターとで話をしがちだ。回線でトラブっている時にきちんとレイヤーを落として、イーサーネット接続のデータリンクレイヤーやケーブル接続そのものの物理レイヤーでものごとを考える必要がある。そういう層を変えて考えるということが一応出来ているのかな、と思った。
「岸谷さんやるじゃない。よくプロバイダエッジスイッチのホスト名とか書いてきたね。」
岩砂も付箋の中身を見ていたので岸谷を褒めていた。
「そりゃもう。あたしからお願いするんですから。当たり前です。」
岸谷はちょっとふざけながら自慢した。都の上から喋ってしまったかもという不安は不要だったようだ。逆に素直に褒められたんだと解釈してくれたのかもしれない。岩砂と二人で都のところに聞きに来た時の不安げな感じはなくなり、リラックスしてきたようだ。
「ルーターの設定とか大丈夫なのにpingが通らないからレイヤー3の問題じゃないな、レイヤー2の問題だ、と思ってスイッチ調べて書いて来た?」
岩砂は聞いた。WAN開通で疎通出来ない事象にあったった時に辿る、OSI参照モデルに沿った基本的なトラブルシューティングの考え方だ。
「…いえ、以前下山さんにオフショアセンターの回線管理システムの見方を教わった時、WAN開通上手くいかない場合は、収容図?みたいなのの中に表示されているプロバイダエッジのスイッチも気にするように、って言われてたのを覚えていて…。単純にこれもあった方が良いのかな、と思っただけで…。」
岸谷は急に自信なさげな調子になり言った。本人は声を小さくしているつもりだが、もともと通る声なので、小さくなった感じはあまりない。ちょっと調子に乗ったり、すぐ冷静になったりと面白い子だな、と都は可笑しかった。
「なんだ。そういうこと。」
岩砂は、がっかりしたというよりは、まあ、そうだよね、という感じで笑いながら言った。まだそこまでネットワーク的に論理的な思考プロセスは岸谷の中では出来上がっていない。
「いえ、でもちゃんと下山さんに言われたことを覚えていて、こういう時に出せたんだから、それはすごいですよ。」
既に専用端末へ向かい、新しいターミナルウィンドウを立ち上げて、そのプロバイダエッジのスイッチへログインしようとしていた都は二人の方を振り返って言った。
「最初知った時はよく分からなくても、頭の片隅においておいて、大事な時にこれかも、って引っ張り出してみると、それが良い方向へ引っ張ってくれることってありますよ。」
都は経験からそういうちょっとしたことがトラブルシューティングの糸口になることを知っていたので、岸谷に今回の経験を是非覚えていて欲しいと思って付け足した。本当にちょっとしたことが突破口を開いてくれることが時折あるのだ。
「ほら、あたしやるじゃないですか!」
都の付け足しに岸谷がまた自信を取り戻したので、岩砂と都は二人で笑ってしまった。